当時盛り上がりつつあったAugmented Reality(AR)と,別の授業で扱っていた,情動を持つコンピュータからヒントを得ました。仕事の道具でなく,感情を豊かにする媒体としてコンピュータを使えないかと思い立ったのです。名付けてAugmented Emotion。手始めに,画像処理ソフトで頭でっかちにしたゴッホの自画像を作って,気合を入れました。
根本の発想は,文学や美術,音楽や映画が生み出す,人の喜怒哀楽に作用する世界と,日常生活の間にある垣根を取り払おうというものです。最初はユーザーの状態に応じて流す曲を変える音楽プレーヤというアイデアでしたが,案の定,試作例がありました。だったらもっとデカく出てやれと,普段の暮らしと映画の境目を無くすという風呂敷を広げてみたのです。
早速ビデオ・カメラを買い込み実験開始です。椅子に置いて居間の様子を四六時中撮りっぱなしにしました。時々場所を変え,別アングルからも撮影するよう配慮しました。いずれ家庭にも無数のカメラが入り込み,ユーザーが身につけたコンピュータ上のソフトウエア・エージェントと交渉して,様々な角度からユーザーの振る舞いを漏れなく記録するという想定でした。
撮りためた膨大な映像を「映画」にするには,ストーリーが必要です。日常生活に埋もれた逸話を掘り起こすため,被写体の表情や動作に着目しました。人物が感情の高まりを示す情景を選んで再構成すれば,一本の物語に生まれかわると踏んだのです。
将来のコンピュータなら,長時間の記録から心を動かすシーンを抜き出し,あらかじめ用意した汎用のシナリオに沿って並び替えることができるでしょう。でも今はできません。自分で映像を全部見て,特徴的なシーンを抜き出しました。シナリオとして用意したのは,三つの部分から成る単純なもの。最初は登場人物が談笑する場面。次が仲違いをするシーン。最後は和解する様子です。音声は消して,お気に入りの映画音楽をあわせました。雲が流れる場面を間に挟んだりして,完成したのは数分間の映像です。
出来栄えは予想以上でした。少なくとも,登場人物たちにとっては。今でもいくつかの場面が脳裏に浮かびます。しかし,他人にとってはそれほどでもなかったようです。課題の発表会で映写しても,教室は静まり返るばかり。後からクラスメートに冷やかされました。まだ結婚したてのころでした。
早いものであれから12年たちました。その間のカメラの技術の進歩には,目を見張るばかりです。今週あった展示会PMA 2010では,ソニーのミラーレス機や,パノラマ撮影機能を備える各社の新製品などが話題でした。より小型の機器で,現実世界を余すところなく撮影する方向に向け,ハードウエアが着実に進歩していることを実感できます。ソニーが昨年出したカメラ・スタンドなどは,被写体が楽しんでいるシーンを自ら判断して撮影する機能があるほどです。現実は予想以上の早さで,私の妄想を本物にしてしまうかもしれません。
少なくともより多くのカメラが生活に組み込まれ,今以上に膨大な映像が日常に溢れるのは間違いないでしょう。そのときも,日本企業はカメラ業界の盟主であり続けられるでしょうか。筆者には,カメラのハードウエアよりも,撮りためた映像の方が主役になる日が遠からず訪れるように思えてなりません。その時代に備えて,日本企業が水面下で準備をしていればいいのですが。
蓄積したコンテンツを自由自在に扱うためには,様々な技術の開発が必要です。私の稚拙なアイデアを実現するだけでも,感情の認識技術や場面を理解する技術,プライバシーの確保まで難問が山積みです。このほかにも,複数の人が異なる機器で撮影した画像をどう集めて整理するのか,映像を長期間保存するにはどうしたらいいのかなど,まだまだ技術者の仕事に事欠きません。
端から見ている限り,米国の大手検索企業や,リンゴのマークの会社などは,膨大なコンテンツをユーザーが効率良く利用できる環境を意識して動いているようです。もちろん日本企業にも,笑顔の認識など得意な技術があります。是非それを活用し,コンテンツを消費する側の機能やサービスを拡充して欲しいと思います。
「日常を映画にする装置」が生んだ映像の原本は,もう私の手元にありません。VHSのカセットが破損して,再生できなくなってしまいました。確かデジタル化してパソコンに取り込んだ気もするのですが,今は探してみようとは思いません。なぜなら現在の家内は,当時の妻とは別人だからです。
それでもあの映像が,かけがえのない思い出であるのは確かです。いつか年老いてかつての妻とばったり再会し,どこかでコーヒーでも飲んでいるときに,ふと思い出して映像を呼び出し,心の底から笑う。そんなことが当たり前にできる未来の到来を望みます。
ニュース(2月22日~26日)
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