2007年7月から2010年3月まで日経 xTECHの前身サイトの1つ「Tech-On!」で仲森智博編集委員(当時、現・日経BP総研 未来研究所 所長)が執筆したコラム「思索の副作用 」から今でも人気の高い5本を選んで再掲載しました。

 「オレたち、マスゴミって呼ばれてるんだぜ、知ってた?」。向かいの席で藤堂さんが言う。もちろん知っている。小心者なので、そのことをいたく気に病んでもいる。

 ゴミとか露骨に言われれば、ちょっと口を尖らせて言い訳してみたくもなる。けど、冷静に考えてみればちっとも意味があることではない。そう呼ばれるにはそれなりの理由があるわけで、弁明をしたらその「理由」がなくなるわけでもないだろうし。で、年も改まったということで、このことについて改めて考えてみることにした。

いらねーんだよ、お前ら

 まず、「マスゴミ」の意味である。ゴミと言うからには「不要なもの」、つまり、「偉そうにしてるけど、ちっとも役に立たないじゃないか。いらねーんだよ、お前ら」ということか。確かに年末年始のテレビ番組をつらつらと見ていて、「こりゃ、いらんと言われても仕方がないかなぁ」などと思わないでもなかった。一昔前まであったはずの、手の込んだドキュメンタリーや本格ドラマは影をひそめ、ほとんどが若手お笑いタレントが何かをしてワーとかキャーとか言うバラエティー番組。そうでなければ番宣がらみで出演する俳優さんを交えたトーク番組とかテレビショッピングとか・・・。

 状況は、年々ひどくなっているような感じがする。いかにも低予算で作れそうなバラエティー番組が限りなく増えていくような気がするのだ。その挙句、報道番組までがバラエティー仕立てになってしまったと、かつて神足裕司氏もコラムで指摘しておられた。視聴者が意識することはほとんどないが、テレビ番組は「科学番組」、「報道」、「情報バラエティー番組」などと分類されており、このうち「報道」では厳しく情報を吟味する。つまり、ウラをとるのである。一方、お笑いバラエティーで披露される「ネタ」は、それ自体が真実であるかどうかを問うものではない。その、本来はまったく違う種類に属する番組の垣根が崩れてきた。

 この原因として、神足氏は「数字(視聴率)が欲しい」けど「番組制作の予算が少ない」という、二つの理由を挙げておられた。個人的には、後者の影響が大きいのではないかと思う。予算を切り詰めざるをえないほど、テレビ局の業績が悪化しているのである。予算、つまりその番組制作に割ける時間と人員が足りない。だから、ウラをとったり情報を吟味したりする余裕がない。だったら初めから「なんちゃって」で許されるバラエティー仕立てにしてしまえ。そんなことではないかと疑っているのである。

 そのことに気付き、そうでないことをアピールすることで存在感を増そうとしている局もある。NHKである。いや、勝手にそう勘ぐっているだけなのだが。

NHKは資金力で勝負?

 2008年の大河ドラマ『篤姫』は年間を通じて高視聴率を記録し、年末恒例の紅白歌合戦の視聴率も長期低落傾向を脱して久しぶりに40%を超えたという。NHK会長は「紅白改革」の成果と自画自賛した、などというニュースも流れたが、私は民放各社の「予算削減」がいよいよ数字となって現れ始めた結果だと思っている。それをNHKも見抜いているのかもしれない。この年末年始だけで、しかもたまたま見ただけでも2回、番組冒頭に膨大な量のビデオテープを積み上げてみせて、「この番組を作るために、これだけ膨大な量の映像が使われているんですよ、すごいでしょ」と自慢している光景をみた。

 一般の視聴者に「1本の番組を作る裏ですごい努力をしてるんだぁ、すごい」と感心してもらおうとしたのかもしれない。けど、「この種の努力にはえらくコストがかかる」ことを一応知っている私は「すごい制作費をかけられるんだなぁ、こりゃ民放では歯が立たんわ」とへんに感心してしまった。そして気付いた。1本の番組にかけられる制作費の多寡を競争軸にすれば、NHKは絶対に民放に負けることはない。そのことを確信し、彼らはそれを視聴者にアピールする作戦に出たのではと。

 約6700億円に達するNHKの事業収入(2009年度予算)の約97%は受信料。だからそれができる。しかし、「スポンサーから得た広告料金を主たる収入源にする」というビジネスモデルが不況の影響もあって機能不全に陥っている民放放送が、そんな体力勝負で勝てるはずがない。結局、予算はどんどん減って行く。だから、大物俳優もシッカリした台本も事前取材も必要ない、低予算のバラエティー番組ばかりが増殖する。

 それではさすがに消費者も飽きてしまうだろう。それで、視聴率が下がり、収益はさらに悪化する。その結果としてさらに収入は減り、制作予算は削られる。それでも何とか面白さを保とうと、報道番組でも「悪い政治家はより悪く、感動の物語はより感動いっぱいに」という派手な演出が施されたりする。でも、それって「そもそも嘘でしょう」と神足氏はいう。演出すればするほど本当のことは見えなくなっていく。そして、マスコミはマスゴミになっていくのか。

簡単だけど、すごく難しいこと

 ちなみにWikipediaによれば、マスゴミとは「マスメディアを批判的に扱う際に用いられる蔑称」で、社会の公器として報道することを建前としながらも、裏を取らずに官庁や企業・団体の発表を鵜呑みにして報道すること、排他的な記者クラブを構成していること、偏った政治思想による偏向報道、近年目立つ捏造報道などが批判のベースになっているようだ。強いバックを持たない一般人や有名人に対しては容赦ないが、政治家・官僚やスポンサー、宗教団体、広告代理店、大手事務所所属の芸能人、スポーツ選手・団体(チーム)の不祥事などは知りながら故意に報道しないことが多い、といった指摘もある。

 「面白くない」ということも問題だろうけど、それより、権力や金銭、固有の思想などに歪められた情報しか報道せず「本当のことを言わない」という体質こそが、批判の対象となっているようだ。加えれば、ウケ狙いの過剰演出も偏向や捏造の予備軍で、少なくとも「本当のこと」ではない。

 この、「本当のことを言う」ということは、簡単そうに思えるけど、実はとても難しい。先日も「難しいけど何よりそれが重要なのだ」という話をルーシー・クラフトさんからうかがった。彼女は、日本を拠点に活動するベテランの米国人ジャーナリストである。

 ただし、彼女が指摘するのはマスコミの特殊な事情に関してではない。そもそも、企業でもお役所でも政府でも、あらゆる組織がダメになるのは「本当のことを言う」という1点が守られていないからで、実はそれこそが組織にとってもっとも重要なことなのだという。

 例えば、従業員が自己の業績をアピールするため、成果を誇張して報告したり、他人の成果を横取りしたりする。よく聞くような話だ。しかし、こうした虚偽の報告が真に受けられてその従業員が出世でもしようものなら、職場の雰囲気は最悪になる。さらには「模倣犯」も出現するだろう。それがエスカレートすれば、過失や事故は隠蔽して報告しないなどという風土がしっかり職場に根付いてしまう。そこから、企業にとって致命的事態を招きかねない事件が頻発するようになるだろう。

だって怖いもん

 もちろん、問題を起すのは従業員だけではない。むしろ深刻なのは、リーダーが犯す誤りである。リーダーも人間だから、しばしばそれは起こる。けれど、健全な組織でそれが破綻にまで至らないのは、リーダーの周囲にフォロワーたちがいるからだ。会社でいえば、経営陣と従業員、上司と部下である。組織の鉄則は、従業員たち部下たちが正直にものを言う、つまりリーダーが間違ったときは「間違ってますよ」と本当のことが言えることなのだとルーシーはいう。

 典型例でいえば、米国ではエンロン社の破綻、日本では偽装問題で破綻した多くの食品関連企業などなど、多くの従業員は「それは絶対に間違っている」「続けていればいつかはバレて破綻する」と分かっていたはずだ。けれど、経営陣や上司に本当のことを言う人は、たぶん極めて少数だった。多くの社員は「あなたはハダカですよ」とは言えなかった。つまり、部下の阿諛追従(あゆついしょう)や沈黙が、多くの悲劇を生んだというわけだ。

 それは部下の責任だと思われがちだがそうではないのだと、ルーシーがこんな実例を教えてくれた。

 ハリウッドの映画制作者サミュエル・ゴールドウィンは20世紀の映画王と呼ばれた人で、35年間に何本もアカデミー賞を受賞する卓越した映画を作り上げた。マーロン・ブランド、ゲイリー・クーパーなど数々の俳優や監督を見出したのも彼だった。ただ、やたら怖い人だったらしい。怒ったときのすさまじさは筆舌に尽くしがたいものだったとか。そんな天才にもスランプはある。失敗作を連発して落ち込んだ彼は、部下を呼んでこう言った。「私の周りにイエスマンはいらないのだよ、君たち。今、この会社のどこがどう間違っているのか、ぜひ本音が聞きたい。首覚悟の勇気をもって、はっきり言ってみたまえ」。

 それはぜったい無理だろう。だって、怖いもん。

 こんな話もある。ソビエト連邦の元首だったニキータ・フルシチョフ。冷戦時代を象徴する恐ろしい人物である。国連の会議で靴を脱ぎ、その靴でテーブルを叩くという行動をとるような人物だ。その彼は自由化を推進するため、故スターリンの独裁者ぶりを痛烈に批判した。スターリンが行った残虐行為を世界に向け次々と暴露していったのだ。

 その彼がアメリカで記者会見をしたことがある。予めリストにして提出されていた最初の質問が読み上げられたのだが、これがなかなか辛らつなものだった。「あなたは、激しくスターリンを批判した。しかし、あなたはスターリンの親しい後輩だったではないか。スターリンの存命中、あなたは一体何をしていたのか」というのだ。

 フルシチョフは怒った。「だれがその質問をしたんだ!」。普段は口やかましい記者たちが、珍しく沈黙した。シーンとなった会場を見渡し、彼が再び吼える。「その質問を書いたのは、一体だれだと聞いているんだ!」。長い静寂のときが流れた。そこでやおら、フルシチョフはこう言った。「私が当時やったのは、これです。今のような沈黙です」。

成績が悪いのは上司のせい

 怖い人に「あんたは間違っている」というのは、とても勇気がいることだ。たとえ相手が実に温和な人であっても、人事権を握っている上司だったりすれば、やっぱり怖い。無事是貴人、沈黙は金ということで、あえて本当のことは言わないで済ませようとするだろう。イヤなことを報告しなければならないときも、それを何重にもオブラートに包んで、苦いんだか甘いんだかよくわからなくしてしまう。それが積もりに積もれば、そのこと自体が組織にとって大きなリスクになる。

 破綻やトラブルの原因になるだけではなく、いいアイデアさえ出てこなくなってしまう。ブレインストーミングのようなアイデア会議でも、発言することによって、いじめやセクハラ、リストラなどの対象になり得ると社員が不安を覚えるようであれば、成果はまったく期待できない。「部下が自分よりいい考えを出したら機嫌が悪くなる、自分や会社に対して批判的な発言をした人のことは決して忘れない、他人の意見にはケチを付けないと気がすまないなんていう上司って、よくいるよね。私も何人も遭遇した。でもそんな人が参加している会議でいいアイデアが出るなんて、まず期待できない」とルーシーはいう。

 だから、上司などのリーダーに求められる最も重要なことは、「部下が本当のことを言えるようにすること」なのだというのが彼女の持論だ。それを裏付ける調査結果も古今にわたって数多くあるらしい。有名な1940年代に行われた経営調査の対象は営業スタッフ。調査員の狙いは、成績抜群のカリスマ社員と業績最悪のダメ社員の違いはどこにあるのかを探ることである。そう聞いて思い浮かべるのは、能力や技術の差とか、教育の違いとか、ノルマ制度の有無とか、給料の多寡とか。でも実際にはどれも当たっておらず、一番大きな違いとして浮かび上がってきたのは「直属上司との信頼感」の有無だったのだという。溢れんばかりの才能と卓越した技量をもった社員であっても、上司との信頼関係がなければ最悪の業績しか残せない可能性があるのである。

「本当のことが書いてある」

 マスコミだって仕切っているのは会社などの組織だから、同じような事情があるだろう。けど、それはあくまで楽屋内での話。上司が怖くて本当のことが言えなかったとしても、外に向いて本当のことを言ったり書いたりすることは十分に可能なはずである。けれど、それがどうもうまくできていない。少なくとも、世間はそう感じている。私も感じている。

 「本当のことを書く」ということの難しさを若き日の自分に知らしめてくれた、忘れがたい記事がある。日経エレクトロニクスの1996年4月22日号に掲載された書評記事で、著者は長く日経エレクトロニクスの編集長を務められた西村吉雄氏(執筆当時は編集委員)である。いきなり記事の冒頭で新刊の『転換期の半導体・液晶産業』を評し、西村氏はこう書く。

 実証的な本である。本当のことが書いてある。著者の誇りもおそらくそこにあるだろう。しかし、著者の悲哀もまたそこにある。評者も著者の悲哀を少なからず共有する。

 そして最後に、こう結ぶ。

 予測には「スローガン」と「実業の指針」という二つの側面がある、と著者は言う。事実に基づく正確な予測を「実業の方針」としようとする人は残念ながら多くない。「分析はいらない。うそでもいいから元気の出ることを書いてくれ」。一度ならず評者はそう言われたことがある。明らかに間違っている新聞記事を喜ぶ関係者も少なくない。「とにかく載りさえすれば予算はとりやすくなる」とうそぶく。正確な予測を「暗い」と一蹴された経験を、著者は「おわりに」に記す。

 相手の自覚さえしていない期待を探り、相手の「欲しい答え」をだしてあげるのが情報生産者の仕事であり、「正しい答え」なんか出しても商品にならないと上野千鶴子氏は言う。つくづく共感する。

 それでも評者は「無知に勇気づけられ、あいまいな言葉に鼓舞され」ることを好まない。20歳ほど年少の著者が同じ好みであることを知って、評者はおおいに勇気づけられた。

 バラエティー仕掛けの報道番組ではないけれど、読者が読みたい「売れる商品」としての情報とは、メディアに長く身を置くものの経験からいえば、多くの場合「本当のこと」ではない、との指摘であろう。「売れる商品」とは読者が求めるもので、さらに言えばマスコミと呼ばれる営利組織が求めるものでもある。それに背を向けて、本当だけれども読者にも自分の会社にも求められないものを生み出すことは、表現することを生業とする者として相当に怖い。

戦慄の奥田発言

 さらに怖いものがある。スポンサー、広告主だ。

 昨年11月には、トヨタ自動車相談役の奥田碩氏がある会合で「マスコミに報復してやろうか」という発言をされたとの報道が流れ、この業界に身を置くものとして少なからぬ衝撃を受けた。ニュースによれば、政府の「厚生労働行政の在り方に関する懇談会」の座長でもある同氏は首相官邸で開かれた会合で、厚労省に関するテレビなどの報道について「朝から晩まで年金や保険のことで厚労省たたきをやっている。あれだけたたかれるのは異常な話。正直言ってマスコミに報復してやろうか。スポンサーでも降りてやろうかと」と発言した、というのがそのニュースの内容だった。

 改めて言うまでもないかもしれないが、雑誌は、読者の方々からいただく販売収入とスポンサー(多くの場合は企業)からいただく広告収入で成り立っている。多くの大部数媒体では後者の比率が高く、無料配布の雑誌では民放のテレビ番組のごとく広告収入ですべてのコストをまかなっている。つまり、ビジネスモデルからしてスポンサーを不快にさせるような内容の記事を書くことは非常に怖い、という構造になっているのである。

 まだある。取材させていただけるから私たちはジャーナリストとして活動できるわけで、その取材先から嫌われるのは、やはり怖い。狭い業界に足場を置く専門雑誌などではなおさらだ。

「最低の記事」という評価

 前に挙げた、たった2ページの記事が今でも忘れられないのは、この思いを現実に味わったからでもある。先の書評記事で俎上に上がった新刊書の著者は直野典彦氏。執筆当時は野村総合研究所のアナリストであったがその後に転職、ラムバスの日本法人の社長も務められ、現在はIT系ベンチャー企業などを経営しておられる。

 その彼と出会ったのは、1994年のこと。この顛末については以前にこのコラムに書いたことがあるので詳細は省くが、日経エレクトロニクスの記者であった私は、その少し前から「液晶パネルの価格が近い将来、大暴落するのでは」との疑念を抱くようになっていた。けれど、業界内外のどこを取材してもそのような話は出てこない。誰もが「そんなことはあり得ない」と笑うのである。こうして、自分の仮説にようやく疑問を抱きはじめたころ直野氏に出会った。彼の分析結果は、まったく同じ現象を予測するものだった。

 直野氏から新たなデータも得て自信を深め、その見解を日経エレクトロニクスの1994年7月4日号の特集として執筆した。改めてバックナンバーを探してみると、表紙には「カラーTFT液晶が供給過剰へ」、第1部には「1995年、供給能力の急上昇で価格崩壊が始まる」とのタイトルが。当時、積極投資を表明して鼻息の荒かったメーカーに、冷や水を浴びせ掛けるかのような内容である。

 その記事は、多くの一般読者の方からは高く評価していただいたし、予測の正しさも間もなくメーカーの業績悪化という結果を伴って証明された。それでよかったといえばよかったのだが、読者の中でも液晶パネル・メーカーに勤務する方、さらには取材先の方からは猛烈な反発を浴びた。質問状という名の長文の抗議文もいただいたし、「業界の発展を阻害する最低の記事」と露骨に言われもした。その挙句に、「仲森はあの記事を書いたおかげで××(某大手エレクトロニクスメーカー)には出入り禁止になった」などという噂まで飛び交うようになったのである。これにはさすがにビビった。

正義とは何か

 上司が怖い、読者が怖い、スポンサーも怖い、さらには取材先も怖い。改めて考えてみると、こうした構造のなかで私たちは仕事をしているのである。そこに身を置きながらも「真実をありのまま舌鋒鋭く」表現するのは、それなりに勇気のいることである。けれど、それに慄き怖れに身を委ねてしまえば、手放しの賞賛や腰が砕けた当たり障りのない論評しかできなくなってしまう。

 でもそれでは読者や視聴者も飽きてしまうから、たまには何かを痛烈に批判したい。その、格好の標的になっているのが、とりあえず叩いてもどこからも文句がきそうにない犯罪者や大問題が露呈して立ち直れそうもない企業、さらには失言をしてしまった政治家ということになるのだろうか。昨今のテレビや新聞の報道をみていると、そんな「いじめ」にも似た傾向がどんどん強まっているような気がしてならない。

 もちろん、政治家や犯罪者、誠実とはいえない企業をとことん追及し批判する者の背には、正義という看板がある。過剰演出の裏には、「社会をよりよいものにしなければならない」という信念があったりもするだろう。けれども、この正義とか信念とかいうものが、実はクセモノなのだと私は思っている。たとえば、テロの撲滅を叫び行動する人には、正義と信念がある。けれど、わが身を犠牲にしてまで何かを成し遂げようとするテロリストにも、彼らなりの強烈な正義と信念があるわけだし。

 この、正義や信念というものをどうとらえるかということは、ジャーナリズムというものを考える上でとても重い課題だと思う。「ジャーナリストは観察者であるべきか、行為者であるべきか」という、根源的な問題に直結するからだ。

正反対の薫陶

 先に紹介した特集記事がいい例である。この記事は取材先から猛反発を浴びたが、実は社内のある大先輩からもこの記事のおかげでこっぴどく怒られたのである。業界の成長に水を差すというのが、その理由だった。「私たちには産業を育成する責務がある。このようなネガティブな記事はせっかく加熱してきた投資意欲を削ぐものだ」と。

 その大先輩は、マスコミは行為者であるべきで、観察者ではダメなのだという。「目の前に弱ったネコがいるとするだろ。見ると、どうもエサを食べたがっていない。それを見て『どうも食べていないようですねぇ』なんて書いてどんな意味があるんだ。何とかエサを食べさせようとするのがオレたちの仕事じゃないか」と説教されたものである。

 それは一つのあり方だと思うが、私がこの会社に転職してきて、当時の編集長である西村氏から薫陶を受けたジャーナリストのあるべき姿とは正反対のものだった。西村氏は「ジャーナリストはよき観察者であるべし」という。簡単に言えば、見えにくい「本当のこと」を書きなさいということだと思う。そうであれば、その反語としての「行為者」とは、「本当のこと」を自身の責務や信念、自身が奉じる正義と照らし合わせて解釈、あるいは演出する者、ということになるだろう。

 西村氏の「観察者たれ」との教えに従えば、「このペースで投資を続ければ供給過剰に陥る」ということが「本当のこと」だと確信できれば、説得できる材料を用意してそれを訴えるべきである。その結果は、「正義に照らし合わせて論調を決める」という行為者からすれば「まったくなってない」ものかもしれない。けれど、「だからダメなんだ」と言われても、まっさらのときから教え込まれてきたものは、そう簡単に変えられるものではない。

 もっとも「そう教えられたんだから」というのは都合のよい言い訳かもしれない。実は、変えなくてもいいと思ったのである。「行為者か観察者か」という問題に関しては、あまりに二人の先輩の意見が違うので、機会あるごとに社内外の先輩ジャーナリストの方にこの話題を吹っかけてみた。けれど、どちらかが圧倒的多数ということでもなく、「そんなこと考えてみたこともない」という方も少なからずおられ、結局は自分で決めるしかないことなのかと考えるに至った。

 だから、勝手に「観察者」の方に決めた。いろいろ怖いことがあるけれど、「本当のことを言おう」と決心したのである。まあそれは外向きの体裁のよい言い方、実は小心ものなので、広告主や取材先より、行為者になるということの方が怖かったのかもしれない。行為には責任が伴う。その恐怖を乗り越えさせる力が「正義」などというものにはあるのだと思う。けれど、その正しさは、当人にとっては明々白々であっても、ほかの者にとってはまったくそうではない。そんなものに、怖くてこの身は託せない。

再びあやまる私たち

 けれども、そう感じる私などは少数派で、「行為者」志向の業界関係者がやはり優勢なのかもしれない。それに気付かせてくれた事件が昨年あった。流行語大賞の候補にもなった「あなたとは違うんです」という、福田元首相の発言である。

 たまたま、この記者会見の質疑応答をテレビの生中継で視ていて、この場面ではかなりドキリとした。「あなたとは・・・」の部分だけがとても有名になってしまったが、この発言をフルバージョンでいえば「私は自分を客観的に見ることができるんです。あなたとは違うんです」である。

 その短い批判的コメントを私はこう解釈して聞いた。「自分は観察者的にものごとをみている。だから冷静かつ客観的に状況を把握することができる。その姿勢とは正反対に、あなた方は行為者。客観的ではなく、極めて主観的に、あくまで自身が打ち立てた正義という視点からしかものを見ていないのではないか」。一国の首相が観察者であっていいのかという問題はさておき、少なくとも福田元首相は、新聞記者を行為者とみなし、新聞報道が行為者的、恣意的であると感じていることは確かだろう。

 新聞が行為者たろうとすること、つまり自身の正義や信念を基準に世間を動かそうとすることは、いいことなのか悪いことなのか。私にそれを断ずる能力はない。けれど山本夏彦氏は、こうした過去の行動がいつも大きな悲劇を生んできたということを指摘し、「私は断言する。新聞はこの次の一大事の時にも国をあやまるだろう」とおっしゃった。これから先のことはともかく、過去に反省すべき多くの行為をとってきたことは事実だと思うし、その系譜に連なる私たちはそのことを強く自覚しなければならないと思う。

 そのことの、個人的な答えが「よき観察者となる」ということであった。そして、様々な恐怖の中に身を晒しつつも勇気をもって「本当のこと」を言えるようになろうと、若き日の私は青空を見上げながら激しく決意したはずである。そして、あらゆるメディアが存亡の岐路に立つ今こそ、そのことを強く認識し直さなければならないとも思う。ところが恥ずかしいことに、そのことをずいぶん長い間忘れていたような気がする。「マスゴミ」という言葉が、それを思い起こさせてくれるキッカケになったようだ。

本当のことを言う

 もちろん、思い出しただけでは意味がない。実践しなければならないのである。よし、それを今年の目標にしよう。そう思い定めて正月休み明けのオフィスに行くと、日経Automotive Technologyの鶴原くんがヒゲを生やしていた。まだ伸び切っていないからか、何か小汚い。「いやあ、めんどくさいから剃らなかったら伸びただけですよぉ」とか言っていたが、何日経っても剃る気配はないのである。それとなく周囲の印象を聞いてみたのだが、あまり芳しくない。それで本人に「ちなみに家での評判はどうなの?」と聞くと、「ムスメからはウザいとか言われてますけど」と眉をひそめつつも、まったく改める気配はないのである。

 「気を悪くするのでは」と怖れ、婉曲な諫止を試みようとした私が間違っていた。次に会ったら勇気をふるって、ちゃんと本当のことを言おうと思う。「似合ってないよ」って。