『発掘!あるある大事典』の捏造問題が取り上げられるたびに、少しでもテレビに出演した経験がある人間なら誰でも居心地の悪い思いをしているはずだ。この事件が、単なる悪意による捏造というより、映像メディアの構造がもたらす必然的、かつ根本的な問題であることに気付いているからである。

 例えば私でさえ放送前にメイクされる。「男なのにお化粧される」という感覚がそれほど異様にも思えなくなった昨今だが、厳密には実物よりもタレントをよく見せようとする嘘である。「時代劇の時代考証がなってない」ことは、もはや週刊誌の定番ネタになっているが、実際問題として予算をかけて厳密に歴史を調べてはいられない。だから、予算を掛けられるNHKの大河ドラマだけが責められるというわけだ。

 テレビとは嘘が霜降り状に混ざったメディアなのである。

 3月29日の読売新聞が「『あるある』捏造の教訓」と題して問題を解説している。よくできている。書き出しに「われわれは科学番組を作っているのではなく、報道でもない。情報バラエティー番組を作っているんです」という制作者たちの言い訳を挙げている。見ている方が意識することはほとんどないが、テレビ番組は「科学番組」、「報道」、「情報バラエティー番組」などと分類されているのだ。

 このうち「報道」は、非常に厳しく情報を吟味する。伝え方一つで誰かの社会的生命を奪ってしまうからだ。みのもんたの『朝ズバッ!』が元従業員女性の証言を基に「賞味期限切れのチョコレートを小売店から回収し、溶かして製造し直した」と報じて、不二家から抗議を受けている。まず、その従業員は10年以上も前に工場をやめていた。しかも、ソースは元従業員の証言のみだった。そんなルートがあるかどうかはわからないが、「ウラ」を取らなかったのである。これが「報道」の制作なら、普通あり得ない。報道はどこのテレビ局でもそうだろうが、他社が報道した、あるいは新聞に書かれたことでさえ、自らウラを取れなければ報じない。

 ところが、ジャンルの違う番組同士の垣根が崩れてきた。久米宏の『ニュースステーション』は、報道だが情報バラエティーの手法を取り入れた番組だった。読売記事の見出しが言うように「危うい『面白さ優先』」だったわけだ。NHKを見ればわかるように、ニュース番組は面白くない。いや、それは言いすぎか。正確には、「広義にはその問題に関心があれば面白いが、狭義に万人には面白いはずがない」とでも言えばよいのだろうか。

 いずれにせよ、それをもっと面白くしようとすればボケなければならない。ボケを解説するくらい野暮なことはないが、知っているのに知らないふりをするわけだ。さらに、分かりやすくするために、悪い政治家はより悪く、感動の物語はより感動いっぱいに演出しなければならない。

 これ、そもそも嘘でしょう。

 だから、昔の芸人は「しょせん芸人の言うことですから信用しちゃいけません」と自らを貶めた。貶めてはいるが、それが頑強な予防線になっていた。芸人は本当のことなど言わない。だが面白い。とはいえ、芸人が芸だけで、俳優が演技力だけで観客を喜ばせることは、それもまためちゃくちゃに難しいことだ。「欧米か!?」の決まり文句は、タカアンドトシが心血を注いだ結果、奇跡のように現れたものなのだ。

 「常に視聴者の興味をひきつける新鮮なネタを得たければ、ニュースからとってしまえ」と、これは爆笑問題が踏み出した。芸人は時事問題をネタにしても、まだ真偽の確定していないニュースを素材にすることは避けてきた。危なかしくってしょうがないから。だが、世の中は面白さを要求する。そして面白いこととは、芸人のトリックでなく事実なのだ。事実ならなんでもよろしい。熱湯にはいって熱がるのでも、ふられた女が失恋体験を語るのでも。だが、それら小さな悲惨は、現実に世の中で起きた最悪のニュースたちにはかなわない。

 テレビの安全弁はお笑い、ニュース、ドラマの循環にあったと私は思う。お笑いの社会風刺はつきつめれば深刻な報道になる。深刻な報道番組の隔靴掻痒のもどかしさは、もっと奥の真実をみせてくれるドラマになる。シリアスなドラマに飽きるとそれに茶々を入れたくなって「お笑い」が復活する。

 ところが、恐らく天才たけしの80年代お笑いブームの後、ニュースステーションが現れ、それがトレンディドラマに進んでいく過程で三者の融合が起きた。笑えるドラマのようなニュース番組という鵺(ぬえ)が生成されたのだ。

 面白いニュース番組がないわけではない。博学にして当意即妙、問題の核心をつくコメントが言えるキャスターがいれば、ニュースは面白くなる。だが、そんな奴いるか? これもまた、危うい面白さ。ないものねだりだ。キャスター自身が他人の言葉を借りて捏造、いや盗作しかねない。

 と、そんなことを言ったって、テレビは視聴率を取らねばならない。それもぎりぎりの低予算で。

 『あるある』は、年間30億円、制作した関西テレビ放送の売り上げの3分の1を占めていたと聞く。誰だってそんな「いい番組」を作りたい。だが、いい番組にはカネがかかる。だから、いったんカネになったら、なるべく無駄を削いで回収率をアップしなければならない。「カネをかけてアメリカまで取材に行ったけど、博士はこっちの期待通りのコメントをくれませんでした」では済まないのだ。

 『あるある』が捏造であるなら、制作会社だけでなく出演していたタレント全員にも責任があるはずだ。が、それを追求する声はない。それは、マスコミ各社がテレビの本質を知っているが故の、武士の情けではあるまいか。

 テレビは「あいまい」に「美しく」、そして「危うく」なったのだ。

【注】このコンテンツは、以前に日経ベンチャー経営者クラブのサイトで「美しくて、あいまいな日本」というコラムの記事として公開されていたもので、Tech-On!に再掲いたしました。

著者紹介

神足裕司(こうたり・ゆうじ)
1957年広島生まれ。慶応義塾大学法学部政治学科卒。筒井康隆と大宅壮一と梶山季之と阿佐田哲也と遠藤周作と野坂昭如と開高健と石原裕次郎を慕い、途中から徳大寺有恒と魯山人もすることに。学生時代から執筆活動をはじめ、コピーライターやトップ屋や自動車評論家や料理評論家や流行語評論家や俳優までやってみた結果、わけのわからないことに。著書に『金魂巻』『恨ミシュラン』あり。