日本の半導体市場はトップ転落

 特集第2部は技術者にとってのかかわりようを追って,技術者二人による覆面座談会で構成した。半導体ユーザーであるコンピュータ開発者“今野さん”(仮名)と,民生分野の半導体企画・開発者“半田さん”(同)が登場した。

 今回の記事のために半田さんに久方ぶりにお会いした。「90年代初頭までは,日本は恐いもの知らずだった。ところが半導体摩擦が激しくなった1992年ごろ,日本の技術者は目標を失った」(半田氏)。ただし貿易摩擦と直接的な因果関係があるわけではない。「たまたま時期が一致しているだけ」(同氏)。半導体摩擦の思い出は,とらえ難く,振り返っても評価しにくい出来事だった。半導体摩擦にかかわった多くの人に共通する思いだろう。

 半導体摩擦が悩ましい問題だったころまで,日本の半導体市場は世界トップだった。ところが,20%問題をクリアした直後の1993年に米国市場に抜かれ,今や日本を除くアジア市場が圧倒している(図2)。日本が「ポストVTR」を見出せないまま,米国がリードするパソコンはインターネットの勃興とともに家庭に入り込んだ。日本のお家芸とされた家電と,コンピュータ/通信との間に厳然としてあった壁は崩れた。放送の世界もハイビジョン/MUSEの長年の技術蓄積にもかかわらず欧米主導のMPEGが従来のテレビ方式を包含する形でデジタル放送を席巻した。携帯電話でもしかり。

図2 世界半導体市場における地域別出荷額 日米半導体摩擦の問題が沈静化した直後の1993年,日本市場を北米市場が追い抜いた。WSTS(World Semiconductor Trade Statistics,世界半導体市場統計)の公表値による。
図2 世界半導体市場における地域別出荷額 日米半導体摩擦の問題が沈静化した直後の1993年,日本市場を北米市場が追い抜いた。WSTS(World Semiconductor Trade Statistics,世界半導体市場統計)の公表値による。 (画像のクリックで拡大)

 半導体摩擦では,日本の民生機器の特殊性が問題になった。契約なしの調達とか,急激な量産立ち上げのパターンは日本固有であり,日本の半導体メーカーしか対応できない芸当であると非難された。しかし気が付いてみると,その関係は棚上げにされたまま,コンシューマ・エレクトロニクスを牽引するのは日本以外という構図に入ってしまったと見える。

 最後に思い出話を。冒頭の特集を米国で取材したのはサンノゼ支局に赴任したばかりの小林修記者。彼が日本の編集部に対して熱く語ったことがある。「なぜ日本では『ビジネス・モデル』を書かないのか! 米国ではみんながこの言葉で次を語っている」。今やビジネス・モデルという言葉を聞かない日はないくらいだが,当時,日本のエレクトロニクス業界では一切聞かなかった。本誌にも1990年代半ばまで登場しなかったはずである。いまだに咀嚼しきれない日米貿易摩擦が起きていたころ,彼我の間にはこうした違いがあり,そして日本は“失われた10年”とも言われる時代を経ることになった。

松永 憲男
参考文献
1) 安保ほか,「山場が迫る日米半導体摩擦,今年末までの20%達成は苦しい」,『日経エレクトロニクス』,1992年2月3日号,no.546,pp.111-145.