そのころ米国の企業には日本に対する警戒心のかけらもなくて,どこでも自由に見せてくれた。50万画素の素子を顕微鏡でのぞいたときに「日本企業はとても勝てない」と思った。同時に写真フィルムを使った8ミリカメラやカメラは,そう遠くない将来に消えていくとの確信を持った。

広がる応用分野


図2 「カラー・カメラの現役とルーキー」 本誌1975年12月1日号の表紙写真。NHK総合技術研究所とNECが開発したCCDカラー・カメラの試作機(手前)と,撮像管を用いた当時のカメラ(奥)を並べて撮影した。

 帰国してからCCDの取材に一段と力を入れた。大手企業に加えてNHK総合技術研究所にはよく足を運んだ。業界の取りまとめ役であり,将来は撮像管に代わる固体撮像素子の開発に照準を合わせて,精力的に研究を進めていた(図2)。特に主任技師だった和久井孝太郎さんには手取り足取り教えていただいた。撮像管が半導体素子になるという信念の持ち主で,力強い味方でもあった。CCDを使った小型で軽量のビデオ・カメラがいつ登場するのか,会うとそんな話に夢中になった。

 その後,日本はCCDを使ったビデオ・カメラやデジタル・カメラで世界市場を制覇した。かつて先行していた欧米メーカーは見る影もない。私は1976年3月に日経エレクトロニクス編集部を離れた。日本経済新聞でエレクトロニクスを中心にした産業取材を担当した。

 ある日,ソニーの記者発表を聞いて,「えっ」と驚いた。他社に先駆けてCCD撮像素子の量産を始めるという。ソニーより先行する企業がたくさんあったのになぜ,というのが率直な印象だった。その謎は,ずっと後になって解けた。ソニー4代目社長の岩間和夫さんが亡くなった後,5代目の大賀典雄社長が「岩間さんがCCDの量産を決断したのには敬意を払う。技術屋出身だけに直感が働いた」と語っているのを知った。

 岩間さんは元は技術者だけに日経エレクトロニクスの愛読者だった。岩間社長に取材した時,「日経エレクトロニクスはよく読んでいる」と言ったので私は自尊心をくすぐられてひどくうれしかった。

平野 勝彦
参考文献
1) 平野,「商品化を目指し開発急ピッチのCCD」,『日経エレクトロニクス』,1974年5月20日号,no.82,pp.49―78.