本来であれば、「史上最悪のプロジェクトに挑む~硫黄島決戦と栗林中将から学ぶ」の「その5」をお届けするはずだが、今回は「番外編」を公開する。「その4」を掲載したのはなんと4月13日であり、それから5カ月以上が経ってしまった。この間、書けなくなった理由は色々あるが言い訳になるので割愛する。硫黄島に関する本連載は開始が予定より遅れた上、書き始めてからも執筆がしばしば滞り、掲載が遅れ、その度にお詫びや言い訳を書いてきた。居直るようだが今回は遅れた理由ではなく、再開した訳から書き始めたい。

 「その1」で触れたように、硫黄島決戦とその指揮官であった栗林忠道中将について書こうと思ったきっかけは、早稲田大学文学学術院の留守晴夫教授が著した『常に諸子の先頭に在り 陸軍中将栗林忠道と硫黄島戦』(慧文社)を読んだことである。同書は2006年7月31日に出版された。クリント・イーストウッド監督の映画が話題になりつつあった頃だ。同監督が撮った二本の映画のうち、『父親たちの星条旗』は10月21日から、『硫黄島からの手紙』は12月9日から、それぞれ日本で公開された。

 二本の国内公開と前後して、硫黄島決戦に関する書籍が相次いで出版された。留守教授の本もその中の一冊になるが、同書の基になった雑誌連載は1999年から2001年にかけて執筆されており、映画とは特に関係がない。イーストウッド監督のおかげで硫黄島決戦と栗林中将は日本でも話題になったが、今から6~8年前、留守教授が連載を続けていた当時は「ほとんどの日本人が知らずにゐる」状態であった。

 留守教授は中将の生地である長野市松代町を訪れ、地元の書店で松代の歴史と文化を詳細に紹介する本を買ってみたものの、栗林中将の名はどこにも出ていなかった。さらに「(硫黄島の戰鬪について)試みに二クラスの學生に訊ねてみた事があるが、知つている學生の數は寥々たるものであつた」。このため、留守教授の著書の第一章は「忘れられた栗林中将」と題されている(留守教授はこの第一章全文をWebサイトに公開している)。

 同書の跋文で留守教授はイーストウッド監督の映画制作によって起きた日本の「驚くべき變り樣」に触れ、「アメリカが話題にするしないに拘らず、日本人として忘れてならぬ事柄があり、眞摯に考へ續けねばならぬ問題がある。栗林中将の生涯や硫黄島戰から學ばねばならないのは、正にその事なのである」と書いている。その通りであって、ここから先は筆者の居直りになるが、たとえ5カ月間休もうとも、考え続け、書き続けたいと思っている。

硫黄島を忘れないアメリカ、忘れた日本

 「イーストウッド監督のおかげで硫黄島と栗林中将は日本でも話題になった」と書いた。「日本でも」というからには、他国で話題になっていなければならない。実は、アメリカ人は硫黄島戦を忘れるどころか、戦争当時から戦後の今日に至るまで、一貫して注目し続けている。毎年のように硫黄島に関する書籍が刊行されており、『父親たちの星条旗』の原作『FLAGS OF OUR FATHERS』がベストセラーになり映画になったのは、アメリカ人が依然として硫黄島戦に深い関心を寄せているからである。

 そこで今回は番外編としてアメリカ側から硫黄島戦を見ることにする。本連載で既に何回か書いたように、筆者は硫黄島戦と栗林中将から大きく三点を学べると考えている。番外編からこの連載を読む方もおられるであろうから以下にそれら三点を再掲する。

合理精神に基づく計画●史上最悪のプロジェクトと言うべき硫黄島の戦いで、プロジェクトマネジャ役を務めた栗林忠道陸軍中将が合理的に考え抜き、与えられた条件下で最善の計画を立てたこと。
鉄石の統率と敢闘精神●硫黄島の守備にあたった2万人の兵士に対し、栗林中将が厳しい要請を出し、兵士達がそれに応えたこと。
二面性を持てた理由●栗林中将が理詰めで考え抜くとともに、何が何でも日本を守るという気概を持っていたこと。

 二面性とは「合理精神に基づく計画」と「鉄石の統率と敢闘精神」の両立を指す。これら二点は両立させにくい。留守教授は、栗林中将を「西洋的合理精神と封建的忠誠心をあはせ持つ『異形』の日本人であった」と評している。その栗林中将と硫黄島で対決したアメリカ軍もまた二面性を持っていた。それが今回の本題である。

 本題に入る前に、硫黄島戦から以上の三点を学ぶ意味について「その1」で書いた文章を再掲しておく。「1945年に起きたこの激しい戦いと、Tech-On!にどのような関係があるのか。二つのことが学べる。史上最悪のプロジェクトを知ることにより、困難なプロジェクトにどう取り組むべきかを考えられる。さらに、第二次世界大戦における日米両国の戦略戦術の相違から、日本の近代化を巡る問題を考えることができる」。

新たな任務を編み出した海兵隊

 硫黄島戦に登場するアメリカ軍とは海兵隊のことである。海兵隊が持つ二面性のうち、「合理精神に基づく計画」から見てみたい。それは「その3」で紹介した「水陸両用作戦」である。日本軍の前線基地に対し、空と海から大量の爆弾を投下して防御施設を破壊してから一気に上陸する、というものだ。敵軍の眼前に上陸する作戦は従来困難とされていたが、海兵隊は自らの新しい任務として水陸両用作戦を提唱し、具体策を編み出した。これも以前に紹介した本だが、『アメリカ海兵隊 非営利型組織の自己革新』(野中郁次郎著、中公新書)に、海兵隊が水陸両用作戦を編み出す経緯がまとめられている。

 水陸両用作戦は海兵隊にとってイノベーションであった。乱暴だが製造業に例えると、それまで手掛けていなかった、まったく新しい事業を構想し、その事業を展開するために必要な計画と組織を作り、技術と製品を開発し、要員を育て、実験を繰り返し、最後は実際の市場で新事業を成功させた、という話になる。水陸両用作戦という新規の任務に取り組むべき、と提言したのはアール・エリス少佐であった。それまでの海兵隊は主に前線基地の防御や陸軍支援を手掛けていた。

 彼(エリス)は、太平洋方面における戦争は日本軍の急襲によって始まることを予言し、これに対するアメリカの攻勢はマーシャル、カロリン諸島を一直線に北上して日本本土を叩くことになると主張した。彼はさらに、この戦略的作戦を遂行するために、「水陸両用作戦」という新たな概念を提唱し、その概要について提言した。例えば、水中破壊チーム、海岸設営隊、艦砲射撃、信号隊、航空爆撃支援等々である。(『アメリカ海兵隊』)

 エリス少佐は1921年に水陸両用作戦の論文を書き、その2年後パラオで変死するが、海兵隊はエリス少佐の構想を具体的な形に仕上げていく。とはいえ、エリス少佐の構想はあまりにも斬新であったため、海兵隊内部にも反対があり、水陸両用作戦の準備が本格的に進むのはエリス少佐の死後10年、1933年になってからだった。海兵隊学校で具体策の検討が始まり、上陸作戦のマニュアルが作られた。この間、学校の授業は中止され、「七十人の将校、スタッフ、学生が五つのチームに分かれて上陸作戦マニュアルの作成に没頭し、軍事作戦の知的フロンティアに挑戦した」(『アメリカ海兵隊』)。

 知的フロンティアとはまさにその通りで、なにしろ過去にほとんど前例がない作戦であるから、マニュアル作りのスタッフはもっぱら、「直感と常識と想像力」(『アメリカ海兵隊』)に頼った。海兵隊は、10年以上前に亡くなった一人の少佐の構想を再度取り上げ、構想以外に何もない状態から軍事計画とマニュアルを作り上げた。その思考力と、物事を徹底して進める姿勢には圧倒される。

 ここで少し脱線するが、相当数の人間を投入して考え抜き、しかも詳細な文書にまとめ上げるやり方はアメリカで引き続き行われており、例えば、プロジェクトマネジメントの知識体系「PMBOK(プロジェクトマネジメント・ボディ・オブ・ナレッジ)ガイド」もそうして作られたと思う。PMBOKは、主にアメリカのプロジェクトマネジャ経験者を動員して作られ、数年おきに更新されている。さらに脱線するが、この知識体系に準じてプロジェクトを進めようとすると、プロジェクトを始める前に相当量の文書を作らなければならず、日本人からすると「机上の計画をこねていないで早く実際の物作りに入ろう」と言いたくなってしまう。確かに杓子定規に形式的な文書を作ることは無意味だが、といってさしたる準備なしにプロジェクトを始めてしまうのは無謀である。