この前,正月を迎えたと思ったらもう3月である。春には大学を卒業して企業の研究者や技術者になる方も多いことだろう。企業側は新入社員を迎える準備で忙しくも期待に胸を躍らせている方も多いに違いない。この2月に研究開発関連の展示会が立て続けに二つあり,筆者も大学のブースで学生の方と少しお話しする機会があった。若者の「理科離れ」が叫ばれるが「その研究はどんなインパクトを社会に与えるんですか?」などという筆者の質問にも,汗を拭き拭き一生懸命説明する若者に接して「科学技術立国日本の将来は明るいのでは」という思いも抱いた。

 その二つの展示会とは,2月7日~2月9日に東京ビッグサイトで開かれた燃料電池関連展示会「FC EXPO2007」と,2月21日~23日に同じく東京ビッグサイトで開催されたナノテク関連展示会「nano tech 2007」である。

 年々出展者数が増え,拡大基調にあるといわれる二つの展示会を今年もざっと見させていただいて,「イノベーション」という観点から見て,燃料電池,ナノテクともに踊り場と言うか曲がり角に来ているのではないか,という印象を持った。共通するのは,いわゆる「死の谷」をどう乗り越えるかの「準備期間」に入ったということではないかと思う。今まではひたすら「研究開発」に没頭してきて,ようやく「イノベーション」の段階に入ったともいえるのかもしれない。ということで,本稿では「イノベーション」と「研究開発」と「死の谷」の三つの関係について考えてみたい。

「イノベーション」とは未来価値と現在価値の媒介

 まず「イノベーション」という言葉を再度確認しておこう。前回のコラムで見たように,歴史的に変遷はあったものの,現代におけるイノベーションとは,研究開発によって「未来価値」を誰よりも早く生み出し,それによって現在価値との差異を作り出して,さらにはこの未来価値と現在価値を媒介することによって利潤を得ること,である。

 この定義からすると,イノベーションで大切なのは,現在の消費者に対して,今使っている製品よりも魅力がありぜひ使ってみたい,と欲望をかき立てることである。現在価値を享受している消費者に未来価値との「差異」を感じさせることが重要のようだ。

 ということで,会場のブースで研究成果の説明をしている研究者らしい何人かの方に「この研究成果によって達成される新しい機能は消費者にどんな新しい価値を提供するのですか?」と聞いてみた。

 多くの方は「未来価値」を能弁に語ってくれた。例えばある方は,ノートパソコンや携帯電話機に燃料電池を搭載すれば,コンセントを探さなくても燃料を継ぎ足すだけで何時間でも使うことができる,という。その燃料も液体だけでなく,固体にすることも可能である。粒状の燃料をセルに何粒か投入するだけで済む(Tech-On!の関連記事)。またある方は,フレキシブル・ディスプレイや形状記憶材料を使って携帯端末を腕や体にピッタリとフィットする形で装着することが可能になるという。「ウエアラブル・コンピュータ」の一種であろう。

 そうした目で見ると,展示会ではバラ色の「未来価値」にあふれかえっているといっても良いような雰囲気である。そうした未来価値のアピールはもちろん大切なことであるが,一方でもうちょっと突っ込んで聞いてみると「未来価値と現在価値の媒介」という部分に苦労している実態が浮き彫りになる。

「死の谷」はなぜできるのか

 例えば,あるナノ材料の研究者は「ユニークな機能を持つ製品になるからとメーカーに持ちかけても,すぐに価格はいくらか,コストはいくらかと聞かれてなかなか商品化できない」とぼやいていた。またある燃料電池の研究者は,クルマ向け燃料電池の開発状況について「加圧して燃料を供給し水を使うシステムである限り,量産車に使うのは難しいということが分かってきたのではないか」とさえ言っていた。実用化への課題とは,研究者たちの話を総合してみると,コストダウンと信頼性の確保である。中でもコストダウンは深刻な問題のようである。

 筆者は1985年から1994年にかけて『日経ニューマテリアル』という雑誌の記者をしていたが,当時においても,活発に生み出された新素材がなかなか実用化しない最大の理由は「コスト面で合わない」点だと言われていた。10年以上たった今でも根本的な事情はやはりあまり変わっていないのだろうか…。

 「死の谷」を越えるには,コストを下げねばならない。または,生み出した未来価値が消費者に受け入れてもらえるレベルまでコストを下げる必要がある。「未来価値」と「コスト」と「消費者ニーズ」がからみあった膨大な「連立方程式」を解く作業が必要になる。

 そういえばこの正月,ある業界団体の新春懇談会で,ある中央官庁で政策立案にあたっている方とお話しする機会があり,安倍内閣が戦略に掲げているということもあって「イノベーション」が話題になった。その中で筆者がなにげなしに「死の谷をどう越えるかが課題ですが何かいい策はありませんでしょうか?」と聞いたところ,その方は「あなた方マスコミのせいもあるんでしょうが『死の谷』などという言葉が流行していること自体がイカンのです!」と言うのである。

「『死の谷』は幻想である」