青柳博士(右)と筆者(左)。2015年12月、新宿にて
青柳博士(右)と筆者(左)。2015年12月、新宿にて

 2015年の暮れ、パルスオキシメータの発明者である青柳卓雄博士(現在、日本光電工業 青柳研究室 室長)に取材する機会があった。取材とは少し大げさな表現だが、同窓会と忘年会を兼ねたものと言ったほうが適当かもしれない。

発明の原点「青柳メモ」見つかる

 2015年10月2~4日に聖路加国際大学で開かれた国際シンポジウム“I am Pov”(Innovations and Applications of Monitoring Perfusion and Ventilation)のことは、本コラムでも紹介した(関連記事)。このシンポジウムでの主役である青柳博士には、2つの演題が用意されていた。

 第1の演題は、「パルスオキシメータの着想の経緯」。その講演で使われたパワーポイントの1枚が、当時北海道の医師だった中島進氏宛ての6ページにおよぶ手紙の一部だった。まさに「青柳メモ」と呼ぶのが適当な資料である。すごいと思ったのは最終ページにある「イヤオキシメータ」のブロック図。現在のパルスオキシメータの基本構成であり、これこそが「原点」といえるからだ。

「青柳メモ」(青柳博士の講演資料から)
「青柳メモ」(青柳博士の講演資料から)
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 注目したいのは、この青柳メモの日付。1973年3月27日とある。これは、パルスオキシメータの基本特許出願の1年前に当たる。その当時のことを思い出すと、博士とは日本光電工業の開発部時代、5つのグループの中でそれぞれ呼吸系機器と新生児・産科系機器のチーフという隣同士の立場だった。

 パルスオキシメータの発想は、ちょうどその当時のものだったことが分かり、お互いに新しい生体モニタを開発していたことが鮮明に蘇った。筆者のグループは胎児監視装置を開発中で、博士とは机を並べていたにも関わらず「お隣さん」のことは全く知らなかった。だが、「あの時に!」と思うと、その感激をほんの一部ながらも味わうことになった。