米谷美久(まいたによしひさ)氏が2009年7月30日,呼吸不全により亡くなった。享年76歳。同氏は,オリンパスで銀塩カメラ「PEN」シリーズなどを開発。一人の技術者がカメラ開発において最大限,何をできるのかを示して見せた大人物である。オリンパス内でも尊重され,E-P1にPENという愛称を付けるにあってはレンズ交換機事業を率いる小川治男氏が報告しに行ったという。

 日経エレクトロニクス,2009年7月13日号の記事から以下を転載する。

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「PEN誕生の経緯,米谷美久の偉業を振り返る」

 銀塩カメラの初代PENは,米谷美久が企画・設計した 1~2)。米谷は早稲田大学でターボ付きエンジンを学びながらカメラ関連特許を出願。これを見つけたオリンパス幹部の誘いを受けて,1956年に入社した。

 米谷は2年の工場実習を経て,カメラ設計部門に加わる。そして勉強も兼ねて,途方もない課題を与えられた。市販価格6000円の実現である。当時,カメラは高かった。オリンパスで最安のカメラは,2万3000円ほど。大卒初任給の1.5カ月分に相当した。

 驚くべきは,米谷の行動である。中核部品であるレンズにLeica社製品に迫る解像力を持たせたのだ。無論,6000円という目標は遠のく。しかし米谷は「機構部品を低コスト化してやる」という決意の下,原価低減策をどうにか見いだした。

 要点は主に二つあった。第1は,フィルムの一コマに二コマを撮る「ハーフ判」を採用すること。機構を小ぶりにすることで,安くするためだ。第2は,後の「写ルンです」のように,ギザ付きダイヤルをユーザーが回してフィルムを巻き上げること。通常のレバー式に比べて部品点数が1/50になった。

 米谷は外観も考案した。デザイナーが安っぽいおもちゃを想起させる案しか出してこなかったからだ。米谷は,自らが愛用するLeica社製品と一緒に持ち歩いても恥ずかしくない意匠を追求した。

 新人が作った試作機。にもかかわらず同社幹部が気に入り,商品化を決めた。幹部とは,米谷をオリンパスに引き入れた櫻井榮一である。

 実際に売り出されると,月産1000台でヒットといわわれた時代に,5000台造っても供給不足に陥った。後継機も好評で,中でも「PEN EE」は当時異例なことに,女性によく売れた。米谷が社内を説得して操作部を極力減らしたたまものだった。

 米谷は,その後も度々ヒットを生んだ。 Kodak社がハーフ判をサポートしなかったことなどから作られた小型一眼レフ「OM」シリーズや,レンズ・バリア付きのコンパクト機「XA」シリーズなどだ。(敬称略)

参考文献
1)柳田,『日本の逆転した日』,講談社,1981年.
2)「米谷美久が語る開発秘話」,http://www.olympus.co.jp/jp/corc/history/lecture/vol1/
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 米谷氏がオリンパスのカメラ事業,ひいてはカメラ産業に果たした役割は,実に大きい。