「ここは8人部屋なのですね」
「はい」
「一緒にいる人たちとは,よく話をするのですか」
「いいえ,みんな現場が違って,出勤時間もまちまちですので,あまり話をすることはありません。それにこの会社をやめたり,新たに入ってきたりして,仲良くなってもすぐに別れてしまいます。」
「それでは,いつも1人なの?」
「いいえ,いつもほかの部屋に遊びに行っています。同じ製造課の人とか,同じ田舎から出てきた人とか」
「へえ,それでは,あまり自分の部屋にはいないんだ」
「ええ。寝るときとか読書するときは帰ってきますけど」

 そんな話をしていると,誰かが廊下を走ってくる音が聞こえてきました。と思ったら,次の瞬間,バン!と部屋のドアが勢いよく開きました。

「部長,何かあったのですか?」

 慌てて入ってきたのは,肖さんでした。戻ってくる途中,製造部長が作業員宿舎を訪ねてきたことを何人もの作業員から聞いて,肖さんはすぐに自分の部屋に戻ってきたのです。

「肖さん,遅いよ。待っていたんだから」
「すみません。でも,急にどうしたのですか?」

 そんなやりとりをしていると,今まで話していた周囲の作業員たちが急に意味深な微笑みを浮かべて,こう言ったのです。

「それじゃあ,私たちは仕事に行きます。頑張ってデートしてくださいね!」
「えっ,デート? そんなんじゃないよ! 勘違いしないでください」
「照れなくてもいいですよ。製造部長たちのことは,ずっと前から噂になっていますから」
 
 作業員の1人がそう軽口をたたくと,肖さんの顔が見る見る赤くなりました。

「何てこと言うのよ! いい加減なことを言わないで!」

 相当,怒っているようです。しかし,作業員たちは一層うれしそうな顔をして部屋から出ていってしまいました。狭い空間に1500人がひしめくこの作業員宿舎では,暗黙のルールができていました。作業員が彼を連れてきたときには,気を使ってあげるということです。もちろん,この製造部長と肖さんが付き合っているという事実はありません。男性の上司と女性の部下との間では,何かと噂がたつもの。周囲の作業員たちも冷やかし半分なのです。

「そうそう,肖さん。社長があの資料を急いで作ってくれって言っているんです。申し訳ないですけど,すぐ現場へ戻ってもらえませんか」
「分かりました。それでは,すぐに準備します」

 そう答えた肖さんはベッドの階段をよじ登り,枕をパッと持ち上げました。すると,枕の下には彼女の身分証(名札)や時計,小物などがありました。肖さんそれらをポケットにねじ込むと,急いで降りてきました。

「そんなところに,貴重品を入れているのですか」
「そうですよ。だって,置くところがありませんから」
「それでは,盗難事件が起きるのではありませんか」
「はい,頻繁に。でも,私は貴重品なんて持っていません。この時計だって安物ですから」
「でも…」

 8人もの作業員が割り当てられるその狭い部屋に,棚や物置といった収納スペースはほとんどありません。その工場の作業員たちは,大抵の物をベッド周辺に置いていました。

 少しでも価格が高そうな物が置いてあると,盗難の被害に遭う恐れがあります。現金など特に重要なものは,肌身離さず持っているか,職場の鍵がかけられるスペースに保管するかのどちらかで作業員たちは対応していました。出稼ぎ目的で鞄一つで田舎から働きに出てきた作業員たちに,それほど多くの荷物はありません。しかし,この会社では給料を現金で支給していたため,給料日になると作業員たちはかなり気を使っていたのでした。

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