無指向性スピーカーに挑む

 量産開始からさかのぼること2カ月の2009年11月ごろ,HVTユニットの量産を待たずに,試作1号機の開発担当者をはじめ数人が集まり,2010年1月のHVT技術発表会に向けたサンプルの作製に取り掛かった(図2)。

図A\-5 各種コンセプト・サンプルを試作<br>HVT方式の利点を実証するため小型化や薄型化,無指向性,さらには積み重ねなど,いろいろなスピーカーを試作した。
図2 各種コンセプト・サンプルを試作
HVT方式の利点を実証するため小型化や薄型化,無指向性,さらには積み重ねなど,いろいろなスピーカーを試作した。
[画像のクリックで拡大表示]

 数あるサンプルの中で,我々が試作してから出来栄えに驚いたのが,薄型・無指向性・無振動スピーカーである。作製した我々は当初,真に無指向といえる試作機の放射パターンを持つスピーカーの音を,それまで聴いたことがなかった。

 HVTユニットは無指向性スピーカーを原理的に作りやすいことは分かってはいたが,実際に試作して無指向性を確かめる実験は後回しになっていた。担当者の興味本位で作製したサンプルが妙に奇麗な放射パターンを持っていたことから,両面振動板間の距離が指向性に大きく寄与することが判明した。この無指向性スピーカーの試作機シリーズは,その担当者の名を冠して「拓栄」と呼んでいる。本連載の第4回「広がる性質、直進する性質」の図2にあるサンプルは試作3号機ということから,愛称として「拓栄Ⅲ」と名付けた。(第4回の図2はこちら

 無指向性スピーカーの特徴としては,「間接音成分が豊富なため,生音を聴いているバランスに近く,ステージの奥行きや広がりを表現しやすい」ことがよく知られている。それに加えて拓栄Ⅲでは,スピーカーの向きを変えても,人がスピーカーの前を遮ってもステレオ・バランスがほとんど変わらず,近くで聴いても煩わしくなく,部屋の隅までよく音が届く,ということが分かった。これは,本文中で説明した,周波数と放射パターンの関係が原因である。

 一方,無指向性スピーカーは,音場感は良いが定位があいまい,と思われている。このサンプル機では定位も輪郭がハッキリしており,無振動による時間軸でのブレの少なさと,発音源の仮想中心が小さい,といったことが起因していると考えられる。これは,面白い発見であった。

 なお,サンプル機の下方に穴が開いている。ここは上下2カ所に対向してあるバスレフ・ポートの出口で,ポート内部の空気マス振動に対しても打ち消すことを配慮して設けた。ちなみに,スピーカーのデザインは,パイオニアのデザイン部で描いたものである。日本的なものということで,「琴」をモチーフにした。