1977年10月,明け方近くまで居酒屋で議論を交わし,フラフラになって帰宅した日立製作所の安井徳政は,妻の言葉に酔いが一気に醒めていくのを感じた。欧州に駐在している長瀬晃から至急連絡が欲しいとの国際電話が何度もあったという。当時,欧州からの国際電話はよほどの緊急事態でない限りかかってこなかった。
すぐに長瀬に連絡を取った安井は,話を聞くなり真っ青になった。量産を開始したばかりのnMOS製4KビットSRAM「HM472114」に大問題が起きた。欧州のユーザーがプリント基板に実装して評価したところ,全く動かなかったという。HM472114には,高集積化を実現するため高抵抗多結晶Si負荷メモリ・セル(高抵抗セル)を新たに導入した。その高抵抗セルに何か問題があったに違いない。
翌朝,安井は武蔵工場でマイコンのモジュールにHM472114を載せてみた。案の定,付属のオセロ・ゲームのプログラムが動かない。テスタ上では良品判定が出ているHM472114が,ボード上では全く動作しないのだ。原因はすぐに分かった。プリント基板で発生する雑音によってセル内部の多結晶Si負荷に供給する電流が変化し,情報が消失するようだ。一刻も早く対策をしなければ,欧州ユーザーの製品計画に多大な影響を及ぼす。
この日から深夜になると安井の自宅に欧州から国際電話が連日かかってくるようになった。ところが安井は相変わらずつかまらない。対応策の協議が長引き,武蔵工場近くの居酒屋に場所を移して遅くまで議論することが日常化していたからだ。携帯電話などなかった時代である。何度も電話で謝り続けた妻からとうとうクレームが付き,安井は自宅に帰宅時間を正確に伝えることが日課になった。
量産ラインの製造条件を変更
深夜の居酒屋で部下の西村光太郎らと激論を交わした安井は,2段階の対策の実施を決断した。まず,暫定策として多結晶Si負荷へのイオン打ち込み条件を変更し,その後で抜本的な対策を取る。