田端 輝夫氏(写真:栗原 克己)

前回より続く

 新潟県中越地方を襲った地震を契機として,三洋電機の業績は急速に悪化する。2004年度の純損益は,前年度の134億円の黒字から,1371億円の赤字に転落した。

 500億円強の損失を被った半導体事業でも,事業の見直しが迫られた。社内の動揺は大きかった。「こんなときこそ田端さんがいてくれたら…」。名野の願いもむなしく,またしても田端はセミコンダクターカンパニーを去った後だった。2004年10月1日に,セイコーエプソンと液晶パネル事業を統合した三洋エプソンイメージングデバイスの代表取締役社長に就任したばかりである。いくら地震という非常事態とはいえ,古巣に戻ることは到底できなかった。

名野もリストラ対象に

 地震後しばらくすると,セミコンダクターカンパニー内で人員配置の見直しが始まった。これまでのキャリアを度外視した配置転換が次々に発令される。表立って人員削減を標榜したわけではなかったが,その意図は誰の目にも明らかだった。配置転換の対象は,高年齢の社員や管理職。名野も例外ではなかった。

 2005年3月,名野は人事部に呼び出しを受けた。全く異なる分野の営業部門に配属になるという。名野は覚悟を決めた。人事部に,その場で退職を申し出た。「いよいよ,三洋電機ともお別れか」。18歳から働いてきたが,ついに去るときが来た。

 名野には,真っ先に報告すべき相手がいた。2005年4月から,群馬大学で客員教授として講義を受け持つことになっていたのである。「企業連携講座」との触れ込みだったので,企業を去る以上引き受けるわけにはいかない。早速電子メールで報告した。

「名野です。実は会社を辞めることになりまして,客員教授はできなくなりました」

 驚いたのは群馬大学側である。既に講座と客員教授名を文部科学省に申請済みで,学生の受講申請も終わっていたという。群馬大学の担当者は,学長が直談判に行くという話まで持ち出して,三洋電機と掛け合った。

 その日の夜,人事部から名野に電話があった。「今日の退職の話はなかったことにしてください」。名野の首は間一髪つながった。

三洋の技術者ならもっと欲しい

 人事部から配置転換の話があった直後,名野はある出版社と講演会の打ち合わせに臨んだ。雑談中,会社でリストラが進んでいることをそれとなく打ち明けた。

「何とか,いい再就職先を探してやらないといけないと思うんだ」

 名野のつぶやきを聞いた相手は,「その件,私に手伝わせてください」と言ってきた。この会社は以前,求人関係の業務をしており,多数の企業の採用担当者と幅広いネットワークがあるという。話は急展開し,10日後の会合で実際に再就職の支援を始めることが決まった。三洋側の担当者は名野である。

 名野は,同僚の再就職先探しに奔走した。会社の人事部は頼りにならなかった。「これはリストラではなく配置転換なので,人事部は動けない」とにべもない。名野のノート・パソコンには,数十人分の履歴書データが記録されることになった。