新潟県中越地震で倒壊した住宅(写真:共同通信社)

【前回より続く】

「名野さん,すぐに来てください! あのデータは本当だったんですね」

 2001年10月26日。三洋電機の名野隆夫に,AV機器メーカーから連絡が入った。電話口の相手は,興奮を抑え切れないようだ。

「最初は信じていませんでした。しかし,試しに評価したら大変な数値が出て…。ウチのカメラ・モジュール開発部隊が大騒ぎしています。営業担当の方とすぐ飛んできてください」

 名野がチャージ・ポンプの試作品をAV機器メーカーに送り届けたのは,2001年9月11日。米国で同時多発テロが起こる直前だった。相手の反応は良かった。「チャージ・ポンプをずっとやってくれていたなんて,嬉しくてウルウルです。すぐに評価したい」。ところが,反応は全く返ってこなかった。評価さえしてみれば驚かないはずがないのに。

 1カ月以上たってようやくかかってきた電話は,無駄に過ぎた時間を取り戻そうとするかのように切迫していた。電話の相手は携帯電話機への採用を目指しており,すぐに納期と価格を相談したいという。

 11月に入って名野は多くの関係者とともに,顧客を訪れた。

「正直,ウソだと思っていました。でもこんな素晴らしい特性が出るとは。当社のカメラ・モジュールの電源に向けて,ぜひ開発を進めていただきたい」

 名野は「やっと,ここまで来たか」と,胸を撫で下ろした。顧客に渡したチップは,名野が2000年半ばに動作を確認した回路に基づいていた。5倍昇圧時で90%以上という,従来では考えられない高い効率を実現できたチャージ・ポンプ回路である。

 しかし,社内評価用チップが無事に動いた後が長かった。なかなか社内の理解を得られず,顧客に評価してもらえる水準のチップを作るまでに1年近くかかってしまった。気がつけば,この顧客から最初にチャージ・ポンプのアイデアを聞いて以来,早くも4年が経過していた。

技術者の醍醐味

 三洋電機は,この機器メーカーとの取引を発端に,チャージ・ポンプ型DC-DCコンバータICを本格的に事業化する。その立ち上げが,また苦労の連続だった。顧客の仕様を基に作製した検証用サンプルが全く動作しない。不完全なサンプルを渡してAV機器メーカーの逆鱗に触れた後,次の段階のサンプルを持っていったつもりが前のものを渡してしまい,火に油を注いだこともあった。ある関係者は「これほど困難な開発は初めて」とこぼす。

 名野らは,開発と平行して量産の準備を進めた。三洋電機セミコンダクターカンパニーの製造拠点である,新潟三洋電子の施設内に専用製造ラインを構築した。パワーMOSFETの素子分離を徹底する,特別の製造プロセスである。

 製造ライン構築など事業化に向けた道筋は,田端輝夫が全面的にバックアップした。新潟三洋電子の勤務から戻った田端は,2002年4月,セミコンダクターカンパニーの副社長に就任していた。チャージ・ポンプの成功を大いに喜んだ田端は,名野らプロジェクト・チームへの支援を惜しまなかった。

 そして2003年初頭,ついにチャージ・ポンプICの量産が始まった。最初の採用先は,100万画素のカメラを積んだ「メガピクセル・ケータイ」の走りの機種だった。AV機器メーカーはこの機種の広告を新聞に大々的に掲載した。それは名野の心を深い感動で満たした。

名野 隆夫氏(写真:栗原 克己)

 名野は約1年前,群馬大学で念願の博士号を授与されていた。博士号の取得に必要な論文のうち最後の1本は,チャージ・ポンプの開発で書いた。「会社に貢献しない論文で採ったドクターは認めない」。この田端のつぶやきから一念発起して書き上げた。しかし,そのときに名野が感じたのは,肩の荷が下りたような安堵感だった。また,初めて試作したチップが動いた時も,ワクワクするような興奮はあっても,激しく心を揺さぶられることはなかった。