三菱電機は1996年,ついに暗号アルゴリズム「
春――ピンク色のトンネルが,鎌倉市大船の街中に突如出現する。そこかしこで桜のつぼみが,一斉にほころびる。大船の街が,1年で最も華やかになる時だ。構内に桜並木を有する三菱電機の研究所は,満開の時期に合わせて,地域の住民に構内を開放し,「さくらまつり」を催す。
「山岸さん,早く豚汁回してくださいよ」
「まぁ待て,まぁ待て。慌てるな,慌てるな」
1997年。今年もまた,さくらまつりの季節がやって来た。業務を終えた金曜日の夕刻,暗号研究チームは,日ごろの憂さを忘れ,愉快なひとときを過ごしていた。近隣の人たちを招き入れる前日に開かれる「夜桜祭り」だ。三菱電機の大船地区の親睦組織「菱船会」が中心になって催す社員限定のお花見である。
「ほら中嶋さん,遠慮しないでそこ座って。あれ,市川と反町は?」
「まだ2人とも研究室にいましたよ。なんだか議論に夢中で。ゲート数が幾つに減るとか,減らないとか」
「そういや時田もいないな」
菱船会の委員を努める時田俊雄は,研究所のお偉方を接待しようと,新入社員を引き連れ,大船地区を駆け回っていた。
「おやおや,暗号の皆さんじゃないですか。どうですか調子は?」
今にも乾杯しようという暗号研究チームの輪に入ってきたのは,ビールを片手に法被を羽織った研究所長の野間口有である。現在は三菱電機の社長を務める野間口は,当時から部下に気さくに語り掛ける人柄が評判だった。
「ノマさん,今日は堅いこと言わないで,一緒に飲みましょうよ」
「はいこっち。こっち見てー。撮りますよー。はい,チーズ!」