申しわけありません。いきなりお詫びというのもどうかと思うが、今回は本の宣伝なので、大変恐縮しているのである。申しわけありませんが、お慈悲をもって少々お付き合いください。

 で、タイトルは『ほんものの日本人』という。小生が企画、編集を担当し、日経ベンチャーという経営者向けの情報誌に連載していた記事をまとめたもので、日本を代表する文化・芸術・芸能分野の傑人、16人を取り上げた。その意図するところを連載記事の書籍化に際して作成した企画書の一文を引いて説明してみると、次のようなことになる。

 ビジネスの世界では、思い付きや幸運、邪(よこしま)な仕掛けによって大きな富を手に入れることができるかもしれない。しかし、芸術・文化といった分野で同じことをするのは不可能である。できたような気がしたとしても、時間は「ニセモノ」を巧妙に選別し、葬り去る。逆に、人間(じんかん)に埋もれているようなものでも、それが「ホンモノ」であれば必ず時間がそれを発掘し光を浴びせる。
 ビジネスと芸術、文化が複雑にからみ合う今の世の中、ニセモノの芸術、文化が溢れている。その中から、時間という試練に耐える資質を備えた数少ない「ホンモノ」、それを生み出す「ホンモノの日本人」を選び抜き、まとめたのがこの本である。

物足りなさの正体

「撮りたい人がいないんだよなぁ」

 連載企画を考え始めるキッカケになったのは、写真家の藤森武さんが漏らした、この一言だった。藤森さんは巨匠・土門拳のお弟子さんだった方だから仏像を撮るのが本業のようなものだが、そのかたわら自分が「これぞほんもの」と思う人物をしつこく撮り続けてきた。例えば、画家の熊谷守一であり、近年では白洲正子である

「いや、いないわけでもないんだろうけど」

 芸術分野などを見渡せば、現代でも多くの作家さんが活躍されている。ある方は人間国宝、文化勲章などの栄誉を得て、ある方の作品はメディアをさわがせ市場でひっぱりだこになっている。いわゆる「著名人」はたくさん存在するのである。けど、「何か違うっていうか、もう一つ物足りないんだよな」と藤森さんは言う。

 そう感じてしまうのも、仕方のないことなのである。何しろ彼がひそかに比較対象としているのは、熊谷守一のような「バケモノ」なのであるから。

 確かにその人は、悪魔的とでも言いたくなるような強烈な魅力を備えた方だったようだ。晩年は、庭に原生林のごとく草木が生い茂る家に住まい、そこに住む小動物や、草木やなどを描く日々を送った。そんなある日、文化勲章を受けてもらえないかという電話が入る。彼は聞いた。「その賞をもらうと人がたくさん来るのか」と。担当者が「いやそりゃ先生、新聞記者やらテレビのスタッフやら、大勢いらっしゃると思いますよ」と答えると、「だったら、いらない」と、ニベもなく賞を辞退した。人がたくさん来ると、蟻が踏まれて死んでしまうというのが、その理由だった。

スケッチの対象

 こんな話も聞いた。地方のイベントに招聘されて赴いたときのことである。「高名な熊谷画伯がいらっしゃるのだから、ぜひ喜んでいただかないと」ということで、主催者は総出でスケッチにふさわしい風光明媚な景勝地を探し出し、準備を整えて待っていた。そして、その場所に案内したのだが、もう一つよろこんでもらえている風でもない。その証拠に、ちっとも写生を始めようとはしないのだ。次の場所でも、ただつまらなそうに景色を見るばかり。そして、いよいよ最後の場所に到着する。そこでやおらスケッチブックを開いた彼は、しゃがみこんで足元に生えている雑草をスケッチし始めたのだという。

 ただ、そんな平和な日々は老境に入ってからのことで、画家となってもずいぶん後まで、無残な極貧生活を過ごしたらしい。売れなかったわけではない。若くして才能を高く評価され、「描けば売れる」状況にあったにもかかわらず、描けなかったのだという。そんな中、幼い次男が倒れる。妻は必死に「描いてほしい」と懇願したに違いない。何であっても描きさえすればいくばくかの収入を手にでき、医者に診せ、薬を与え、栄養のあるものを食べさせてやることができるのだから。けれど、彼はただおろおろするばかり。果たして我が子は死んでいく。そこに至って、彼は憑かれたようにその死顔を描き始めるのである

 結局、赤貧の中で三人の子を病で失い、そのたびに画風は…(次のページへ