結局、赤貧の中で三人の子を病で失い、そのたびに画風は変わっていく。そして、たどりついたのが、「結局は何も描かない、白いキャンバスが一番美しい」という境地だったらしい。それでもついつい白いキャンバスがあれば、それを汚してしまう。それが人間の情けなさなのであると、彼は言う。

16人との対峙

 そんな、生き方まで芸術にしてしまったような伝説の巨人が頭の中でどかんと座を占めていれば、誰を引き合いに出しても何となく物足りなく感じるのも無理はなかろう。けれど、「この人はほんものだ」と思える方が、この世に一人もいないはずもない。

 ちなみに私には、意中の人がいた。以前、このコラムでも取り上げさせていただいた、楽家十五代当主の樂吉左衛門氏である。楽家は初代の長次郎以来綿々と続く「御ちゃわん屋」である。初代は千利休と相諮り楽焼という技法を生み出し、「侘び」の精神を練り固めたような茶碗を完成させた。その偉大な先祖を戴きつつ、楽家は代々、千家や大名家などに出入りし、400年以上にわたって楽焼の作品を世に送り続けてきた。

 その歴代作品をみると、決して「単に継承している」ものではないことが分かる。各代に確固たる作風があるのだ。各代の当主が、時代の節目で楽焼のスタイルを革新し続けてきた証なのだろう。しかも、どの作品も極めて高水準で、日本を代表する芸術家である本阿弥光悦を唯一の例外とすれば、楽家以外で楽家代々に比肩し得る作家はついに現れなかった。つまり、楽家は、技術と様式を伝承して存続してきた家ではなく、代々が各時代で一流の芸術家であることを宿命付けられ、かつそれを成し遂げてきた「奇跡の家」なのである。

 累世の家というものの多くが、ゆっくりと衰退していく中で、なぜそのようなことが可能なのであろうか。その謎に触れてみたいと、ずっと以前から思っていた。そして、過去に類例をみない当代の作品を見る機会を重ねるうちに、その思いは抜き差しならぬほど深くなっていた。

 その楽氏をはじめとして、冒頭のところで紹介した連載企画では多くの「ほんもの」の方々にお会いすることができた。失礼ながら敬称略で列記させていただくと、薮内佐斗司(彫刻家)、林栄哲(ソロ太鼓奏者)、齋藤眞成(画僧)、与勇輝(人形作家)、草間彌生(現代芸術家)、関野晃平(漆芸家)、奥村靫正(アート・ディレクター)、アレックス・カー(東洋文化研究家)、平良敏子(芭蕉布作家)、細川護熙、武末日臣(陶芸家)、村瀬明道(月心寺庵主・精進料理家)、ワダエミ(コスチュームデザイナー)といった方々である。

味わいの源泉

 不遜ながら、全員が全員、おそるべき「ほんもの」だったと改めて思う。そして、切ないほど日本人的であったと。もちろん、これは私が勝手に思い描く「日本的」というありように、すごく合致していたという個人的感想に過ぎないのだけれど。

 藤森さんと同じように、私の頭の中にも熊谷守一という怪物の姿がある。そして、一般には「洋」画家と紹介される彼こそが、「日本的芸術家」とでも呼ぶべき存在の典型であると思うのである。彼は油絵を描き、晩年は好んで一見子供の落書きのような墨絵も描いた。やはり子供のような字も書いた。その絵や字に魅入られ求める人が後を絶たない。巧拙の彼岸にあるそれら作品が、その人の、内なる精神の風光をそのまま表しているからであろう。

 司馬遼太郎はさる小説の中で、登場人物にさらりとこんなことを言わせている。

「洋夷の絵は活けるがごとく描きます。活けるがごときがよしとすればなまの風光、なまの人、そのあたりの花鳥を見ていればよろしい。唐土の絵もさまざまでございますが、物を借りておのれの気韻をあらわすというのはやはり唐土でごさいましょう」

 唐土、つまり中国の絵も、非漢民族の王朝である清朝に入ると、技巧や写実性をもって鑑賞者を驚かせるような作品が増えていく。だが、伝統的には司馬遼太郎が指摘する通りであろうし、日本もその考えを丸ごと受け止めてしまい、むしろ中国より純化させてしまったようなきらいすらある。

 すなわち、欧米の伝統的な絵画や彫刻は、風景でも人物でも、極めて写実的に…(次のページへ