手を入れる隙

 建築物などでも、何やらその傾向がうかがえないでもない。日本の場合、一度作ってしまったらもう手を入れないのである。奈良時代の木造建築などは、当初は朱と緑で彩られていたのだという。それが経年劣化しても、よほど機能に支障が出ない限りは直さず、風化にまかせる。内装などもそう。だから、桃山時代に書かれた襖絵などというものが、未だにそのまま残っていたりする。寺院に安置されている仏像などもそうで、最初は金ぴかだったはずだ。けれど、それが剥げてきたからといって再び金箔を押すなどということはあまりしない。

 一方、欧州の建造物などは、外観こそあまり変わらないものの、内装はどんどん更新していく。古い建築物の内装を剥がして漆喰(しっくい)の断面をみると、ある周期で何度も塗り重ねられているので、それこそ木の年輪のようになっているらしい。

 東洋美術研究家のアレックス・カー氏(http://www.alex-kerr.com/)は、こう指摘しておられた。「西洋ではどんどん内部の設備を更新していくから、古い建造物が現役で残りやすい。ところが日本では、内装や設備を含めて、丸ごとそのまま残そうとする。だから、寺院とか文化財指定の建造物とか、そうした特殊な建造物だけが当初の姿で残り、あとはどんどん消えていく」。

 先の「引き算論」に沿って考えれば、日本的ものづくりは「本番一発勝負」。後で修正することを想定せず、一発で極めて高い完成度を実現しようとする。逆にいえば、後で修正を入れる余地がほとんどないということかもしれない。

クルマの買い時

 先日、文藝春秋の2007年11月号を読んでいて、「帝国海軍 vs 米国海軍」という特集記事中に、それを匂わせる記述を見つけた。「イノベーションと技術」と題した項で航空機について論じているのだが、その中に「いま自分たちが作れる性能ギリギリまで入れ込んで作ってしまうものだから、改善しようとしてもその余地がない」という指摘が出てくる。

 出典を失念してしまったが、同じ意見を別の評論でも読んだことがある。欧州の戦闘機などは、エンジンの馬力強化などの改良によって同じ機種でも、時がたつにつれてどんどん性能が上がっていく。ところが日本の戦闘機は、バージョンアップによる性能向上の度合いが小さく、結局は新たな機種を開発する以外に飛躍的な性能向上は望めなかったという分析だった。

 戦時中に限ったことでもないかもしれない。こんな話をかつて自動車評論家の方から聞いたことがある。「欧州では、自動車を買うときは古い車種の最終年式のもの(ある車種の最終バージョン)を買えとよく言う。新機種の初期モデルはトラブルが多く、改良すべき点が多い。それを全部ツブした最終モデルを買うのが消費者として正しい選択だというわけ。ところが日本はまったく逆。新車種は性能面で旧車種より大きく向上している。だからといってトラブルが出るわけではない。だから、新車種こそ『買い』なのだ」。

 つまり、日本メーカーは「初号機でいきなり否の打ちようのない完成品を作り上げる」が、欧州メーカーは「初号機は大雑把で完成度が低いが、改良を重ねて完成度を上げていく」ということだろう。そういえば、後者は何やらパソコン文化のありようと妙に似ていなくもない。まず出てくるのはβ版。それを使ってもらって不具合を発見してもらう。それをある程度つぶしたところで製品を出す。けれど、それも完成品ではない。不具合が発見されるたびに改修していく。ユーザー側もある程度の不具合があるかもしれないことを許容し、アップデートを重ねながら使っていく。

得意ですから

 そうかと、ふと気付いた。(次のページへ