得意ですから

 そうかと、ふと気付いた。「日本はソフトが弱い」とかよく言われる。それは間違いで、この「大雑把なものを出して後から改修を重ねていく」という方法が、日本の「ものづくり気質」に合わないのではないか。「何かそれって卑怯じゃない?」と感じてしまい、なかなか実践できないのではと思うのである。ひどく簡単に言えば「性格的に向いてない」のではと。

 そういえば、アレックス・カー氏はこうも言っていた。古い京都の町屋がどんどん消えていく。「とても寒くて不便で暮らせないということで、あんなに美しくて貴重な建築物をどんどん壊していく。その跡にどんな素晴らしい建物が建つのかと見ていると、あっという間に安いペンションのような家が出来上がっていたりするわけ。もうがっかり」。彼は現在、町屋保存を目的に、町屋を改装して宿泊設備にする活動を続けている(http://kyoto-machiya.com/)。アメリカ人の彼からすれば、「古くて美しい建造物を機能的に蘇らせるかどうかは、技術の問題。その技術がないならわかるけど、世界でもトップクラスの技術を保有している日本がそれをしないのは、本当に不思議」なのだという。よほど日本人は、「アップグレードしていく」ということが不得手であるらしい。

 それはそうだとして、この先の選択肢は大きく二つある。一つは「向いていないかもしれないけど、何とか変われるよう努力して頑張ろう」という方法、もう一つは「不得手な部分を克服するよりむしろ、得意な部分を生かして頑張ろう」という方法だ。私の好みは後者なのだが、そうであれば「何に向いているのか」ということを改めて考えてみなければならない。

 すぐに思いつくのは、実際に高い国際競争力を発揮している自動車だろうか。先の話ではないが、「最新車種だからバグがあってもしょうがない」などと笑って許してもらえたのは過去のこと。少なくとも安全に関する部分は最初から完璧でないと相当にマズいのである。後で簡単にバグを修正することができない半導体やディスプレイなども、本来は日本に向いているのかもしれない。自動車の延長線でいえば、航空機などもかなり向いていそうな気がする。よく脚が出なかったり折れたりで話題を提供している某社など、いっそホンダあたりが買収してしまわないかと勝手に考えたりしているのだが。

心配なのは…

 きっと、まだまだある。ここまでに挙げた製品や産業は、「安全」や「信頼性」を競争力の軸に据えるもの。その重要性は、裾野を広げつつこれからさらに高まっていくだろう。そこで力を発揮するのが、「いきなり完璧」を追い求める日本のものづくり気質だと思うのだ。

 ただ、心配なこともある。先に挙げた文藝春秋の記事では、日本軍の習性として「安全性軽視」ということを挙げている。名機とされる零式戦闘機も、その旋回性能や航続距離は突出していながら防御力は極めて脆弱だった。さらに「米海軍にあって、日本海軍に欠けていたのは、『ダメージ・コントロール』という発想」とも同記事は指摘する。作戦計画も兵器も、それは完璧なものですべてその通りに運ぶという無謬性(むびゅうせい)を前提にしていたというのである。ところが人間は必ずミスをする。必ず想定外の出来事が起きる。その準備が何もされていなかったという。防御力が貧弱で、しかも一度ダメージを受けると一気に破綻するとなれば、最悪である。

 この「安全性の軽視」と「無謬性の妄信」は、ものづくり気質に起因するというよりは、当時の日本を覆っていた「歪んだ精神主義」や「硬直した官僚主義」に負う部分が大なのではないかと私は思っている。防御を強化したいと具申すれば「命が惜しいのか」と突っ返され、作戦が失敗したときの対策を練ろうとすれば「そんなことを議論するヒマがあったら必ず成功させることを考えろ」と一喝される。そんな空気に覆われてしまえば、ものづくりの理想も何もあったものではないだろう。

 これは現代でも変わりのないこと。組織から知性と柔軟さを奪う精神主義や官僚主義は、常に成功の敵である。いくら自身を見つめ、知恵を絞って「これこそは」といえるビジネスを見つけ出せたとして、見事にその努力を無駄にしてしまう。いつの時代も悪貨は良貨を駆逐するのである。