「いま、外国人の間で人気急上昇中の日本みやげって、何だか知ってる?」。知人にそう尋ねられて、ハタと考え込んでしまった。時計、カメラ、家電なんていうのはもう古い話だよな。ケータイは持って帰っても使えないし。渋谷の109で売っているファッション・グッズか、それとも秋葉原名物のフィギュアとかか?

 ヒントは、合羽(かっぱ)橋の道具屋街で売っているものだという。ああ、それなら聞いたことがある。「食品サンプルでしょ」と答えたのだが、さにあらず。実は欧米人観光客を中心に、包丁を求める人が目立って増えているのだとか。自分の名前をムリやり漢字表記にして包丁に彫り込んでもらう猛者(もさ)までいるらしい。

 言われてみると「なるほどな」と思う。一つには、世界的な日本食ブームの影響があるのだろう。多くのスシ・バーとかではキッチンがオープンになっていて、調理の様子が客の側からも見えるようになっている。知人によれば、欧米などでは安全で使いやすい料理バサミやフード・プロセッサが多用され、そもそも一般家庭で包丁を使う人が減っているのだそうだ。そのような人からすれば、板前さんの包丁さばきなどは奇術に見えるだろう。「おお、すごい」と感動してしまい、「箸は使えるようになった。次は包丁」とか思ってしまうのかもしれない。

 もう一つは、道具としての和包丁の魅力である。「包丁一本晒に巻いて」などという歌があるけれど、包丁はいわば板前の魂。それを求める外国人は、そこに「武士の魂」である日本刀の残像を見ているのかもしれない。ネットで調べてみると、例えば「一刀斎虎徹の墨流し」という包丁があって、外国人に人気があるのだという。この名からして日本刀臭がぷんぷんしてくる。「一刀斎」は江戸初期の高名な剣客の名だし、「虎徹」は新撰組の近藤勇がその刀を愛用したことで知られる伝説的な刀工の名、「墨流し」は日本刀の地肌にみられる文様を別の方法で模したものなのである。

洗練を重ねる

 このような包丁は、決して安いものではない。プロも使う高いものだと何万円もする。立派に役目を果たす包丁が100円ショップでも手に入ることを考えれば、破格である。だが、高いだけのことはあるようだ。何ともいえず美しい。

 この、道具に魂を込めて洗練に洗練を重ね、ほとんど美術品の域にまで高めてしまうという文化は、きわめて「日本的」なものなのではないかと思う。代表例は、先にも触れた日本刀。その価格は、包丁どころではない。名品になれば、数百万円、数千万円という価格で実際に取り引きされたりする。つまり、機能としての刀は不用になった現代においても、それに魅了され、それだけの大金を払ってでも入手したいと願う人たちが実際にいるのである。

 もちろん、こうした文化が成立するには、条件が必要になる。その一つが「形式の固定化」だろう。日本刀が成立したのは10世紀ころだという。それから約1000年、日本刀はあまり姿を変えず、営々と作り続けられてきた。その長い歴史と旺盛な需要が、多くの名工と名作の誕生を可能にしたのである。ただ、時代が変われば戦闘様式も変わる。それでも、一貫して日本刀は姿を変えず、近世に至るまで武器の主役として君臨してきた。それができたのは、時代の変化を道具ではなく、それを使う人間の側が吸収してきたからなのだろう。

 例えば、戦国時代の武者は甲冑を着込んで…(次のページへ