例えば、戦国時代の武者は甲冑を着込んでいる。武道史家の解説によれば、この時代に日本刀を使って戦う場合は、腰を低く据え股など甲冑の切れ目を「突く」戦法が主流だったようだ。ところが江戸の平和な時代に入ると甲冑武者同士の戦闘はなくなり、武術はもっぱら平服での戦いを主眼にするようになる。そこで生み出されたのが、新たな時代に即した武器ではなく、現代の剣道のように背を伸ばして構え、相手をなで斬りにする軽快な戦法なのである。

 道具はシンプルかつ汎用性の高いものにしておいて、使い手側がその使い方を変える。こうすることで、道具を変化させずに時代の変化にうまく対応させてきたのだろう。同じ方法を使うことで、一つの道具をさまざまな用途、場面に適用することも可能になる。以前、老練の大工さんに、鋸(のこぎり)の使い方についてうかがったことがある。西洋の鋸にはいろいろな種類があり、用途に応じて刃のかたちや取っ手の握り部分の形状などがいろいろ違う。これに対して日本の代表的な鋸は、刃もまっすぐで、柄の部分にも、ただまっすぐな白木の棒が付いているだけだ。ところが、その握る位置や刃の動かし方を変えることで、その大工さんはさまざまな切り方が一つの鋸でできることを実演し見せてくれたのである。

取っ手がない

 鋸に限らず、この「柄の部分がぶっきらぼう」というのは、日本の道具に共通した特徴なのではないかとにらんでいる。包丁だって、多くの西洋の包丁には、いかにも握りやすそうな、ゆるやかな曲線形状の柄がついている。ところが、日本の包丁はまっすぐな白木の棒がついているだけ。それでも柄があるだけいい。多くの日本の伝統的な道具には、柄や取っ手がついていないものが実に多い。

 例えば、懐石料理店などで使っている伝統的な鍋には柄がない。さぞや不便だろうと思うのだが。ご飯を入れるお櫃(ひつ)にも取っ手がない。蓋の部分に炊飯器のようなハンドルがついていると便利だと思うのだが。身近な例でいえば、湯呑(ゆのみ)。西洋のコーヒーカップには取っ手があるが、日本の湯呑や茶碗にはそれがない。

 この謎について以前、日本文化と道具について調べておられるというデザイナーの方に見解をうかがったことがある。彼の説は,このようなものだった。例えばお櫃に取っ手があれば、片手で蓋を開けるだろう。それがないので、両手で開けざるをえない。けれど、この両手で蓋を扱って開けるという所作が実に美しい。そこまで考えて、あえて取っ手のような無粋なものは付けなかったのではないかと。

 そうだったのか、と当時は感心したのだが、最近はちょっと違うかもと思い直している。この所作という理由では、鋸の「柄はただの棒」というケースは説明できない。そうではなく、先に挙げた「汎用性」を勝ち取るために、あえて「柄なし、あっても簡素」という形状にたどりついたのではないかと思いついたのである。柄に手にフィットするような凹凸を施したり蓋にハンドルのようなものを付けたりすれば、確かに扱いやすくはなるかもしれない。けれど、それによって握る場所や握り方が規定されてしまう。その結果、道具の使い方には自ずと制限が生じることになるだろう。

 道具は汎用性を与えるために単純化されたのではないか。こうした道具と、道具を自在に扱う高度な技能を合体させ、道具の種類を必要最小限まで絞り込み、かつ時代の変化に耐える柔軟性を与える。こうして、そぎ落とされ、峻別され、エッセンスのようになった道具を、磨きに磨いて宝石のような輝きをもたせる。これが、日本の「道具文化」とでも呼ぶべきものの正体なのではないかと思うのである。

 そうであれば、合羽橋で売られている和包丁なども…(次のページへ