「朝青龍事件」の報道を見るたびに、何だか気が滅入ってくる。最近は大相撲を見ることも少なくなったので特定の力士に思い入れはない。むしろ朝青龍に関しては、以前から新聞や週刊誌などを賑わしていたので、それらを読んだだけで個人的には何となく好からぬ印象を抱いていたかも、と思う。それでも、現在の報道というか論調というか、その辛辣さと執拗さについては、「そうだ、どんどんやれ!」と同調する気にはとてもなれない。

 相手は、複数の医師によって「病気」で加療を要すると診断された人間である。何しろ事件の発端が「疲労骨折などと診断されたのにあまりに元気そうだった」ということにあるので「また仮病だろう」などとタカをくくっている面があるのかもしれない。だが、そうでなかったらどうする気なのだろう。精神疾患をもつ人を海外にまで乗り込んでいって追いかけ回し、「記者会見に出てきて説明しないのは責任逃れ」と糾弾する。「引退必至」などと決め付けるメディアもある。あれでは健康な人でも病気になってしまうだろう。

いじめの構図

 この事件に限ったことではない。「何とか還元水」で自殺に追い込まれた政治家の方もいた。不正発覚で謝罪会見を余儀なくされ経営者が弾劾を受ける様子も、テレビなどで見飽きるほど見た。吊るし上げられているのは、みな「何かをやらかしてしまった」人たち。非はあるようだから、それを問うなという気はない。だが、どうもこの「問い方」が「いじめ」的になってきているようで気持ちが悪い。「水に落ちた犬は打て」などと中国では言うらしいが、釈明会見の会場で経営者が、普通の企業に勤めたこともない若手新聞記者に罵声を浴びせられている場面などに出くわすと、思わず目をそむけたくなるのである。

 こうしたケースで「いじめ」の対象になっているのは、かつては強者だった人たちである。だから、当事者も傍観者も「弱者いじめ」をしているという自覚が持ちにくく、むしろ「強きをくじく」といった「正義な」気分になってしまうのだろう。だが、かつての強者は不正などを犯すことで、責められるべき弱者の立場に転落しているのだ。こうして弱者へと転落したとたん、人々は競って「カリスマ経営者」などというレッテルをはがし、これまでほめた分を取り返そうとでもするがごとくいじめ抜く。そのお先棒を担いできたのは、私たちメディアなのかもしれないけれど。

 残念なことだが、それは起きるべくして起きることなのかもしれない。「人の心理」ということについて調べているうちに、そう思うようになってきた。例えば、「私たち人間は自分が『強い』と思えば、行動を抑制することをやめてしまう」ものなのだという話が、かつて私が担当していたルーシー・クラフトさんの連載コラムの中に出てくる(連載コラムのページ)。「人を責めたい」などという欲求があったとしても、通常はそれが抑えられている。だが、自分が強者と思えるような位置に立った瞬間、その欲求が解き放たれて歯止めがきかなくなるのかもしれない。

 その証拠として、心理学者によるある実験の結果が紹介されている。まず、学生を集めて3人組に分け、各グループに課題を与える。この段階では、被験者たちはみな平等な立場にある。ところが実験者が各組のリーダーを指名したとたん、どのグループ内にも封建的な身分制度が自然発生する。試しに、5個のクッキーを載せた皿を各組に渡すと、リーダーがクッキーの大部分を食べてしまう。それだけではなく、それ見よがしに口を開けたまま食べてみせたり、食べカスを散らかしたりと、品性を疑いたくなる行動が目立つようになるのだとか。

上司の宿命

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