本題の前になぜこのようなことを書いたのか。栗林中将の最期について異説が取り沙汰されているからだ。発端は、作家の大野芳氏が雑誌SAPIOの2006年10月25日号に寄せた『栗林中将の「死の真相」異聞』という記事である。大野氏は先に紹介した『硫黄島戦記』という書籍の解説においても同じ説を述べておられる。要約すると、栗林中将は最後の組織的作戦遂行時に兵士達の先頭に立って進み、戦死したとされるが事実ではない、事実は正反対で、栗林中将が米軍に投降しようとしたため、それに反対する部下が栗林中将を斬った、そもそも栗林中将は米軍が上陸してからノイローゼ状態になり部下が代わって指揮をとっていた、といった内容である。この異説に対する反論として、『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』を書いた梯久美子氏が文藝春秋の2007年2月号に『検証 栗林中将 衝撃の最期 ノイローゼ、部下による斬殺説の真相』と題した一文を発表した。

 大野氏と梯氏の主張については、先々触れるかもしれないが、仮に「栗林中将がノイローゼで指揮をとれず、しかも部下に殺された」としても、本稿で筆者が言いたいことに影響はない。極論すると、プロジェクトマネジャの仕事は、プロジェクトの計画を立て、チームを組織した段階であらかた終わっているからである。

 本題に入る。「史上最悪のプロジェクトと言うべき硫黄島防衛戦で、プロジェクトマネジャを務めた栗林忠道陸軍中将が合理的に考え、計画を立てたこと」についてである。プロジェクトの計画を立てるにあたっては、目的を明確にして確認しなければならない。ところが、日本軍の作戦においては、目的が曖昧なことが多かったと、『失敗の本質』は指摘している。そんな馬鹿なと思いたくなるが、読者の身の回りに「目的が曖昧なプロジェクト」は見出せないだろうか。なにしろ、『失敗の本質』によれば「日本軍の組織的特性は、その欠陥も含めて、戦後の組織一般のなかにおおむね無批判のまま継承された」のである。

 硫黄島防衛戦の日本にとっての目的は一応明確であった。硫黄島を守り、米軍の手に渡さないことである。東京都に属する硫黄島から東京まで1200キロメートル。硫黄島の飛行場が米軍のものになってしまうと、爆撃機B29による東京攻撃が容易になる。栗林中将は硫黄島を「日本として今最も大切な要点」と呼び、家族への手紙に次のように書いている。『栗林忠道 硫黄島からの手紙』(栗林忠道、文藝春秋)から引用する。

 若し私の居る島が敵に取られたとしたら、日本内地は毎日毎夜の様に空襲されるでしょうから、私達の責任は実に重大です。それで皆決死の覚悟です。私も今度こそは必死です。十中九分九厘迄は生還は期せられないと思います。而かも戦闘はもう眼の前に迫って来て居るので、疲れて睡っている時の外は頭の中が惨烈な戦闘、そして玉砕、そして其の後の妻子の身の上が如何なって行くだろうか?と云う事許りです。

 だが現実には、硫黄島を守るという目的は達成できず、玉砕しか道が無かった。先に「目的は一応明確」と「一応」を付けたのはそのためである。上記の手紙にあるように、おそらく玉砕しかないことを栗林中将は知った上で指揮を執っていた。

 硫黄島に赴任してしばらくは、一厘程度の勝算があると考えていたとみられる。『闘魂 硫黄島 小笠原兵団参謀の回想』(堀江芳孝、光人社NF文庫)によると、硫黄島守備隊の参謀を務めた堀江氏に会った栗林中将は、「ここで敵を引きつけて内地か沖縄から連合艦隊が出てきて敵に横びんたをくれることになる。つまりここは敵を拘束する役割を果たすわけだよ」と述べた。「ここ」とは硫黄島を指す。これに対し、堀江氏は「閣下、連合艦隊なんかありませんよ」と答える。直前の「あ号作戦」に失敗し、日本海軍には「歩と桂馬ぐらいは残っていますが、もう飛車も角もない」(堀江氏)状況だった。空母もなく、戦闘機による防御はまったく期待できない。堀江氏の発言を聞いた栗林中将は「東京の玄関先でただ死ねというのかね」と応じたという。

 玉砕しか道がないことを知った栗林中将はプロジェクトの目的を再定義する。できる限り持ちこたえ、上陸してくる米軍にできる限りの損害を与えた上で玉砕する、というものである。そして、その目的にそった計画を立案した。その計画を、米国のジャーナリスト、リチャード・ニューカム氏は『硫黄島 太平洋戦争死闘記』(光人社NF文庫)の中で次のように描写した。

 ただちに栗林は、独自の防衛計画を推進し始めた。海岸を守ろうとしてはいけない。自動火器と歩兵を水際に置き、主力は北方と摺鉢山に配置する。海岸に上がった敵は隠れる場所もないわけだから、ここで大砲、ロケット、迫撃砲をもって殲滅してしまう。それでも生き残ったアメリカ軍が北に向かって攻めてくれば、栗林はゆっくり後退しながら、敵に最大の損害を与える。

 その結果、どうなったか。ニューカム氏の著書の巻末に掲載されている表を見ると、硫黄島攻略戦(米国から見ればこういう名称になる)における米軍の損害は、戦死行方不明が6821人、戦傷が1万9217人、疲労のため戦線離脱が2648人、計2万8686人となっている。このうち、2万5851人が海兵隊員であった。一方、日本軍の損害は捕虜1083人、戦死2万人(推定)となっている。米軍は兵士の遺体を戦場に置き去りにせず、いったん硫黄島に埋葬した後、最終的には米国へ遺体を運んでいる。これに対し、日本は「推定」値である。

 硫黄島戦は米国の勝利に終わったが、米軍の損害は大きかった。太平洋戦争において、戦死と戦傷を合わせた米軍の損害が、日本軍のそれを上回ったのは、硫黄島戦のみである。米軍の指揮をとった第5上陸軍団司令官スミス海兵中将は回想録『珊瑚礁と将官達』において次のように書いている。訳文は『闘魂 硫黄島』掲載のものを引用する。

 面積わずか二十平方キロに過ぎない不毛の火山島に丹念に構築された、未だかつて考え出されたことのないような、巧緻をきわめた難攻不落の地下要塞で戦われた硫黄島の戦闘は、米国海兵隊の歴史を通じて、最も凄惨で損害の大きかった戦いであった。

 「できる限りの損害を与えた上で玉砕する」という目的を栗林中将と兵士達は全うしたことになる。スミス司令官は栗林中将について回想録にこう書いている。

 最も恐るべき相手はこの栗林中将であった。栗林中将の人柄は彼の構想で構築された硫黄島の地下防衛陣地に深く刻みこまれていた。わが軍が彼とその残存部隊を北野岬の洞穴の中に追いつめるまで、手の届きそうな所で最後まで抵抗した。硫黄島の戦いの特徴は、敵の組織的抵抗が最初の数日間で崩壊せず最後まで続いた点にある。

 このように米国側から、栗林中将と硫黄島守備隊の戦いぶりは高く評価されている。組織的抵抗が終わった時、日本の戦死者は5000人程度で地下要塞にはまだ1万人以上が潜んでいた、と津本陽氏は『名をこそ惜しめ 硫黄島 魂の記録』(文藝春秋)に書いている。この段階では戦死者数においても互角であったことになる。最終的に戦死者が2万にまで増えたのはなぜか。そのほとんどは自決とみられる。栗林中将は兵士達に「われらは、最後の一人となるもゲリラによって敵を悩まさん」と指示していた。降伏はできず、戦おうにも武器弾薬は尽き、地下要塞に留まろうにも食料も水もなく、しかも耐え難いほど熱い。こうした状況下で1万人を超える兵士が地下要塞の中で亡くなり、彼らの遺体は今日も硫黄島の地下にある。

 米軍からいくら評価されようとも、これほどまで凄惨な結末を兵士達にもたらした栗林中将を名将とすることに抵抗感を抱く人がおられるかもしれない。栗林中将の最期について異説を述べる大野氏の意図は、「史実を書き残しておきたい」というものだが、同氏は「硫黄島の闘いに勝った方にも、負けた側にも、“英雄”は不似合いな存在なのだ」とも書いており、栗林中将を持ち上げる動きを暗に批判している。

 確かに、むやみに神格化したり英雄視することに意味はない。だからといって、偶像破壊に精を出し、「勝った方も負けた方も戦争の犠牲者だった」とすることも同じくらい意味がない。栗林中将は与えられた状況の中で、最善を尽くすために計画を立て、硫黄島の兵士はそれに応え、同じように最善を尽くした。これほどまで過酷な状況で、なぜそうしたことができたのか、そこから何かを学ぶべきである。

 冒頭述べたように、汲み取るべき第一点は、「合理精神に基づく計画」の重要性である。早稲田大の留守教授は、『常に諸子の先頭に在り』の中で次のように書いている。

 日本は資源豊かなアメリカの物量に負けたのだと、戦後、大方の日本人は信じた。實際、アメリカの物量は壓倒的な威力を發揮した。けれども、如何に資源が豊かであつても、それだけで戦車揚陸船もブルドーザーも火炎放射器も大型爆撃機も原子爆彈も作れはしない。最小限の損害をもって最大限の打撃をあたへ、最短の時間をもつて最大の目的を達する「唯一可能な方法」、それを徹底的に追及する合理精神こそが、豐富な資源を強力な兵器や膨大な物資にかへるのである。

 先に紹介した『失敗の本質』を読むと、「最小限の損害をもって最大限の打撃をあたへ、最短の時間をもつて最大の目的を達する『唯一可能な方法』、それを徹底的に追及する合理精神」がいかに日本軍に欠落していたかがよく分かる。繰り返しになるが、その欠陥は「戦後の組織一般のなかにおおむね無批判のまま継承された」のである。しかし、留守教授によれば、「(栗林)中將は帝國陸軍には珍しい合理主義精神の持主だつたから、硫黄島着任後、米軍といふ外部の敵への備へに努力する一方、米軍と戰ふにあたつて障礙となる内部の要因を輕減もしくは除去すべく果斷な措置を採った」。次回は合理主義精神に基づく「敵への備へ」と「果斷な措置」について紹介しつつ、引き続き、考えてみたい。

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(谷島 宣之=経営とITサイト編集長)