筆者は高校時代から山登りに熱中していたが,大学3年くらいになると,どうしてもヒマラヤの高峰に登りたくなった。当時は一人で登るなど思いもよらなかったので,組織的に遠征をしようと先輩たちの間を走り回ったりしたが,組織を動かすのは難しい。遠征を断念して「傷心」の筆者は,傷を癒すために一人でヒマラヤに行くことにした。当然,高い山は登れないからトレッキングということになるが,どうせならあんまり人が行っていないところに行こうと思った。

 ヒマラヤ関係の情報を集め始めたが,学内にもヒマラヤに行ったことのある者が結構いたので,そうした方々を訪ねて話を聞いて回った。中には,ブータンに入ろうとして,シッキム(ネパールとブータンの間に存在した国だが1975年にインドが併合)とブータンの国境で警察に捕まってしばらく拘置所に入ってました,などという猛者もいた。

 いろんな方々と夜な夜なヒマラヤについて語り合った結果,筆者はチベット圏に行くことにした。そこで,1979年の春から夏にかけて,まずはインドのニューデリーの北に位置するマナリという村までバスで行き,そこからザンスカール山群を1カ月ほど歩いて,小チベットと呼ばれるラダックに入り,中国との国境近いレーに抜けた。その後,ネパールに入って,西ネパールから北に歩いてチベット圏に入ろうとしたが,中国との国境近い村で国境監視員に止められた。渋々カトマンズに戻って,そこからシルクロードをヨーロッパまで行って帰国したのである(そのあたりは以前のコラム記事を参照)。筆者に限らず,ヒマラヤ談義に花を咲かせた仲間は行くときは皆なぜか一人でパキスタンやらアフガニスタンのヒマラヤに出かけた。

リタイアしたらヒマラヤに行こう

 そんなヒマラヤ好きな連中もそれなりに社会人になり,30年近くが経過した。しかし,今でもそのころの仲間で律儀にも年に1回集まり,ヒマラヤへの夢を語り合っている。さすがに一人ではもう厳しいので,皆でヒマラヤに行こうという趣旨である。ただし,だらしないことにここ30年余りで皆でヒマラヤに行ったのは十数年前のパキスタンのヒンズークシだけである。最近は,定年後にゆっくり行こう,などという話になっている。

 そしてこの前の週末。つまり6月17日と18日が,年に一回定例の「ヒマラヤ馬鹿」たちの集まる日だった。会合場所はここ数年ほどワンパターン化している。仲間の一人が「脱サラ」して,山梨県の山の中で手打ち蕎麦(そば)屋を始めたのである。そこに集合して,近くの山小屋のような民宿(図1)に泊まる。


【図1】宿泊した山梨県の山奥の民宿。この時期,裏山や畑に不用意にサンダルなどで入ると「山ヒル」に食い付かれて血だらけになる。宿の人は「このあたりのやぶの中は年々ヒルが増えて,人間が立ち入れる世界ではなくなりつつある」という(画像をクリックすると拡大します)

 10年ほど前にその方が「退職して蕎麦屋を始める」と言い出したときは,皆冗談だろうと相手にしなかった。しかしその仲間は,スパッと辞職して蕎麦打ちの修行に出た。そしてあれよあれよという間に,山梨の山の中に土地を買って,なんと自分で蕎麦屋兼自宅を建て始めたのである。そして何年かの準備期間を経て,開業にこぎ着けたのであった(図2)。


【図2】蕎麦屋の店内風景。木張りの壁は,山小屋のような風情である。右に少し見えているのが蕎麦屋になった筆者の山仲間(画像をクリックすると拡大します)

 「なぜ辞職してまで蕎麦屋なんですか?」(筆者にとっては年次が上の先輩なので何年たってもいつも敬語である)と聞いたことがある。蕎麦好きなのは当然として,筆者が印象に残ったのが,第一に「現場が好きなのだが管理職にならざるを得ない状況になってきたこと」,第二に「死ぬまでできる仕事がしたいこと」の二点であった。

「さらしな生一本」にかける思い