1996年初頭から夏にかけて、筆者を含む5人の技術者は、強まっていく不安の中で仕事を続けていた。3Mは1996年の初め、我々が所属する磁気記録媒体事業部をスピンオフさせることを決めたからだ。同事業は、3Mとは資本関係がない米Imation社が引き継ぐ。我々5人の仕事は、当時日本が最先端を走っていた磁気記録媒体の製造技術を、Imation社が引き継ぐ米カリフォルニア州Camarilloにある製造拠点に移転することだった。

今までの仕事がなくなる?

 それはかなり微妙な仕事である。スピンオフによって、これまで我々が担っていた磁気記録媒体関連の仕事は、3Mの中からなくなってしまう。そのため、技術移転を終えた後、我々にどんな仕事が待っているのか、果たして仕事自体あるのか、そんな不安が頭から離れなかった。技術移転の仕事は1996年2月に始まり、同年8月に終える予定だったが、その期限が近づくにつれ、「取り残される」という不安がますます大きくなっていった。なにしろ、我々が技術移転の仕事をしている間にも、次々と磁気記録媒体事業部の同僚たちの新しい仕事が決まり、去っていくのだ。

 技術移転プロジェクトのリーダーだった筆者は、部員のそんな不安を痛いほど感じていた。そして、1996年6月、その不安を東京にいる住友スリーエム(現スリーエムジャパン)副社長のHarold Wiensにメールで打ち明けた。「私たち5人は、スピンオフの最後の仕事として、カリフォルニアで技術移転をしていますが、同僚が次々と新しい仕事に異動していくのを見て、チームメンバーたちが将来に不安を覚えています」と。