ザハ案の実現に必要な3つのブレークスルー

(写真:都築 雅人)
(写真:都築 雅人)
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――選定時には問題点が議論されていたのか

内藤:デザイン競技の期間は準備から決定までが半年。非常に急いでいた。審査委員会では、安藤忠雄委員長が最後にザハ案を選ぶという話をしたときに、票が真っ二つに割れた。ザハ案を選んだ場合は幾つかのブレークスルーが必要だと分かっていたからだ。安藤さんには「技術的」「経済的」「周辺環境の調整」という3つのブレークスルーについて解決しなければ、デザインの実現は難しいと説明した。

 技術的ブレークスルーとはザハ案の示した競技場内のスパンの実現だ。建築関係ではこれまでに経験したことのない大スパンとなる。橋梁の施工など土木分野では珍しくないスパンなので、建築と土木を融合するような技術がないと実現は難しいと話した。1964年の東京五輪では、丹下健三氏が代々木体育館で「吊り屋根方式」を用いて設計した。ここには土木技術の知恵が入っている。ザハ案についてもそれに類する革新的な技術が必要になるとの予測はあった。

 経済的なブレークスルーについては、応募案の実現可能性などを確認する専門アドバイザーを務めた和田章・東京工業大学名誉教授に検証してもらった。コストについても評価されており、ザハ案はコストに関して多少グレーゾーンが残った。ただ、他のデザイン案を選定したところでそれぞれに課題を抱えていた。当時は私も楽観的で、「問題はあるかもしれないがナショナルプロジェクトなのだから、官民一体で乗り越えていけるだろう」とみていた。

――官民一体で乗り越えるべき困難に挫折してしまったのはなぜか。

内藤:新国立に関しては世論がわっと盛り上がった。声の大きな人が増えて事務局である日本スポーツ振興センター(JSC)が委縮した。進捗発表や情報公開にも臆病になっていたのだ。そうした態度を続けると、世間からはますます「何か隠しているのではないか」と疑われる。悪いことをしているわけではないのに、さらに委縮してしまう。

 建築家は本来、インディペンデントな(独立した)存在だ。世論が盛り上がるなら大いに議論すべきだった。個人の自由な発言が建築界に必要だ。建築家であるなら、言ったことには責任を取る。発言に対して自分自身の仕事の中で齟齬(そご)がない作品をつくる。その過程が大切なのだ。しかし、その議論にJSCは乗らなかった。

 JSCの態度はどんどん防御的になっていった。もう少し建築界の意見も聞きながら進めたほうが良かったが、当時のJSCはそれどころではなかった。多種多様な団体からの意見を受け付けていたため、「そちら側に目を向けていないとまずい」という話だった。

 14年7月、建築関連5団体(日本建築士会連合会、東京建築士会、日本建築士事務所協会連合会、東京都建築士事務所協会、日本建築家協会)は、JSCに対して旧整備計画に関する質問書を提出した。この頃には安藤さんが体調を崩していたこともあり、僕がザハ・ハディド事務所や日建設計・梓設計・日本設計・アラップ設計共同体(JV)とやり取りをするようになった。設計の過程にも目を通している。

 デザイン選定が終わってから1年半ほど審査委員会の対応が悪かったという反省があるかもしれない。ただ、安藤さんはご自身の生死の際となるような体調のなかで全体の状況を把握することは難しかった。安藤さん1人に責任を負わせるのは気の毒だ。