2020年東京オリンピックエンブレム問題により、世間から再注目を浴びた1964年の東京オリンピックエンブレム。五輪マークの上に日の丸を掲げた、シンプルながらも力強いデザインに、「2020年もこのエンブレムを使ったらいいではないか」という声が多く聞こえた。そして、その制作者である亀倉雄策もまた、没後18年を経て大きな注目を集めることになった。日本のその後の行方を左右することになった国家的スポーツイベントに、亀倉はどのような思いを持って携わっていたのか。そして彼はデザインを通じて日本に何をもたらそうとしたのか。亀倉の評伝作『朱の記憶 亀倉雄策伝』(日経BP社)の著者でクリエイティブディレクターの馬場マコト氏のセミナー(2016年3月24日、東京・青山ブックセンター本店にて開催)で語られた、亀倉の生涯とデザインの力について、談話形式で2回に渡ってお伝えする。

戦後の日本をデザインした男

 亀倉雄策はどんな人だったのか。ひと言で言うと「戦後の日本をデザインした男」であると僕は考えています。

 彼は1915年に生まれ、19歳のときにサン・テグジュペリの『夜間飛行』という本の装丁でデビューします。戦中には情宣誌をつくり、戦後、荒野と化した場所から前回の東京オリンピックのエンブレムや大阪万博といった国家的なイベントのデザイン、ニコンやリクルートといった日本を代表する企業のデザインに携わりました。

 彼は広告、あるいはグラフィックというものを単にデザインしただけではなく、戦後の日本はどうあるべきなのかを考えグランドデザインを作り、日本の近代化と広告ビジネスをけん引していきました。そしてそれが、高度経済成長と結びついていったわけです。

 そんな重要な役割を担った亀倉ですが、実はこれまで、彼の評伝というものはなかったんです。

 亀倉は、映画監督の市川崑、建築家の丹下健三と同い年です。東京オリンピックの映画を作った市川、代々木競技場などをつくった丹下にはいくつもの評伝がある。けど、オリンピックエンブレムをつくり、戦後の日本をデザインしてきた人間の評伝が1冊もないということは、僕にはとてもショックなことでした。

 それならば、と決めたわけです。広告界、グラフィック界で育ってきた人間として、育ててもらったお礼も兼ねて、亀倉の評伝を書こうと。亀倉雄策を通して、広告のあり方、グラフィックデザインのあり方を世に問おうと、『朱の記憶 亀倉雄策伝』を執筆しました。

『朱の記憶 亀倉雄策伝』著者の馬場マコト氏。「グラフィックデザインを通して戦後日本を見直さなくてはならないのではないか」と考えたことも、同書執筆のもう一つのきっかけだったという。
『朱の記憶 亀倉雄策伝』著者の馬場マコト氏。「グラフィックデザインを通して戦後日本を見直さなくてはならないのではないか」と考えたことも、同書執筆のもう一つのきっかけだったという。
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