世界に無視された業績

 ところが長岡の業績は、国際的には無視されて現在に至っている。科学史で原子核の回りを電子が回るという原子模型はアーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford、1871~1937年)によるものとされ、「土星モデル」ではなく「太陽系モデル」と言われている。長岡の名はなぜか海外の科学史に出てこない。

 長岡が土星モデルを提案して8年後の1911年、トムソンの弟子で、α線、β線を発見したラザフォードは、α線を原子に当ててその反発を測定することによって、「原子が、極めて小さい原子核と、その周りを回る電子から成っている」ことを実験的に証明した。彼は論文に「原子核の存在を突き止めた後で長岡の原子模型のことを知った」と付記している。ということは、ラザフォードが独立して「太陽系モデル」にいき着いたにせよ、歴史的には最初に長岡が「土星モデル」を思い付いたことに間違いはない。

 長岡の原子模型が無視されたのは、当時の科学界が日本という極東の後進国を蔑視していたからではないか。実際、ラザフォードに長岡の業績を伝えたウィリアム・ブラッグ(William Bragg、1890~1971年)は、その手紙の中で「しかしいずれにせよ、それ(原子核の存在の提案)はジャップ(Jap)のやったことでした」と書いている。当時は黄色人種や黒人種が進化論的に劣っていると見なされた時代だった。

 また長岡自身、土星モデルについて日本語論文では断定的に書きながら、英語論文では控えめに表現していた。後進国としての引け目があったのだろうか。真に科学的な歴史を記述するのなら、原子模型の創始者として長岡の名は入ってしかるべきだろう。

 この時期、やはりノーベル賞級の業績にもかかわらず、日本人であるが故に退けられた科学者が少なからずいる。例えば、北里柴三郎(1853~1931年、1889年に破傷風菌の培養に成功、1894年にペスト菌を発見)、鈴木梅太郎(1874~1943年、1911年にビタミンB1を創製)、山極勝三郎(1863~1930年、1911年にコールタールによるがん発生を発見)がそうである。山極勝三郎は、山極壽一・京都大学総長の祖父の兄である。