かつて、「ランキング社会の恐怖」というコラムを書こうとしたことがあります。世の中のいろいろな出来事がランキングで表現される時流に違和感を覚えたからです。ところが、何が問題なのかよく分からず、腹案はお蔵入りになりました。今ではこう思っています。怖いのはランキング自体ではなく、ランキングの順位に惑わされて、その背後にある価値観が絶対だと思い込んでしまうことではないのかと。例えば日経テクノロジーオンラインでは、読者のページビューの多寡で記事を順位付けしていますが、それが唯一絶対の方法ではないはずです。「参考になった」ランキング、「若手に人気の」ランキング、「技術者に役立つ」ランキングなど、いくらでもあるはずの尺度が、一つが前面に出ることによって、かき消されてしまうのです。知性を1次元で見積もる発想には、同様な目くらましが潜んでいる気がします。

 仮に知性を一つの尺度で測れたとしても、より数字が大きい人に、何一つかなわないとまでは言えないでしょう。第一、知性を数値で表せるなら、特異点を待つまでもなく、人間の中で優劣が決まります。「AlphaGo」がそうだったように、人工知能が人間を凌駕するとは、機械が人のトップを抜くという意味であって、大多数の人間は既に誰かに負けているのです。実際、どう考えても私の知性はKurzweil氏にかなうわけがありません。それでも、同氏がこのような文章を書くはずはないでしょうし、拙文に一抹の価値を見出してくれる方はいるはずだと信じています。

 最近筆者が感じているのは、自分の長所といえる部分は、実は頭の悪さから来ているのではないかということです。憚りながら、筆者は記事の分かりやすさでは人に負けないよう努めてきたつもりで、実際そう評価していただける場合もあります。なぜそうなのかを考えていたところ、ふと、自分の記憶容量が足りないからではないかと思い至りました。複雑なことを受け入れる器がないからこそ、物事を単純化でき、結果として文章が分かりやすくなるのではないか。本当にそうだとすれば、自分の記憶容量を機械の力で増やせたとしても、代わりに自分の売りものが失われてしまうのです。

 そもそも、世の中に必要なのは高度な知性だけではありません。自然界を見渡せば一目瞭然です。人間の知性がどんなに発達しようと、生態系の維持には多種多様な生物が必要です。人間にはバクテリアの代わりができないだけでなく、そうする意味もないでしょう。だとすれば人と人工知能の間、もっと言えば数多くの人工知能の間でも、役割に応じたすみ分けが可能なのではないでしょうか。人がつくる社会で、曲がりなりにも成立しているように。