8. アトランタ五輪(1996年)

図8 アトランタ五輪(1996年)時の水着
図8 アトランタ五輪(1996年)時の水着

 図8は、金メダリストの3/4が着用したといわれる水着です。素材は「アクアブレード」。バルセロナ五輪の「アクアスペック」から、さらに低抵抗を追求した素材を開発しました。

 平滑化に関しては「アクアスペック」で、ほぼ限界でした。しかし、表面がどんなに平滑であっても、水の粘性により抵抗が発生します。物体表面と水の間に、両者の相対速度に応じてせん断力が発生するためで、これが摩擦抵抗(粘性抵抗)です。

 物体表面からの近い距離の領域では、水の流れにせん断応力による速度勾配が生じることとなり,その領域部分が境界層と呼ばれます(図9)。境界層は水の流れ方による性状の違いで、層流境界層状態と乱流境界層状態に区分されます。実際には、水着表面付近は乱流境界層状態と思われます。乱流境界層では渦が派生するため、表面の極近傍での速度変化が急激な(せん断力が大きい)状態となり、摩擦抵抗が層流境界層状態よりもさらに大きくなります。

 子どものころなどに、下敷きに水をこぼして上にもう一枚下敷きを乗せたとき、ピタっとくっついてしまって取れなくなった経験をお持ちの方がいらっしゃると思います。この状況では、水が下敷きに対して流れてはいませんし、本来は表面張力も考慮しなければならないなど、泳者の体の表面を流れる水の粘性抵抗を説明するには正しい例ではありませんが、水の粘性のイメージをつかんでいただきやすいのではないでしょうか。

図9 平板表面の水の流れ
図9 平板表面の水の流れ
乱流境界層では渦が派生するため、表面の極近傍での速度変化が急激な(せん断力が大きい)状態となり、摩擦抵抗が大きくなる。
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 開発陣は、水着表面に接するところで発生しているこの乱流境界層を壊して表面の摩擦抵抗を低減させるには、同じ場所により大きなエネルギーを持った「縦渦(進行方向の軸周りを回転する渦)」を発生させればよいと考えました。この発想から生まれたのが平滑性の高い「アクアスペック」の表面にストライプ状にフッ素系撥水剤をプリント加工した「アクアブレード 」です(図10)。

 撥水プリントを施した部分と施していない部分では、素材表面の水流速度が微妙に異なり,隣り合った速度の異なる流れが渦を発生させます。撥水プリントは流れに平行になるようストライプ状に施されているため,水流中では撥水プリントに沿って連続的に縦渦が発生します。その結果、「アクアブレード」は「アクアスペック」に比べて約8%、一般競泳水着素材に比べて約23%と、水との摩擦抵抗を大きく低減できました。一言でいえば、アクアスペックにストライプ状の撥水加工を施し、縦渦を発生させ、摩擦抵抗を軽減した素材を開発し、金メダル獲得に貢献したということです。

図10 撥水剤をストライプ状にプリント
図10 撥水剤をストライプ状にプリント
「縦渦」を発生させて、通常の渦を抑制し、摩擦抵抗を減らす。
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 科学的には正しくないですが、弁舌達者な人が淀みなく流れるように話す様子を「立て板に水」と言います。この水着のプリント加工のアイデアも、水着表面を水が後ろへスーっと流れていくようになったことから、「立て板に水」と比喩してもよいのではないでしょうか。

 そしてこの後、ハイテク水着の時代へと突入していくのです。