本音と建前の使い分けという二面性。日本の社会を特徴付ける重要な要素の1つだと思われている方も案外多いのではないかと思います。しかし、私のイメージでは、その二面性は米国社会の方が比較にならないくらい強いです。

 例えば、職場で激しい議論を交わしている2人の間で、お互い言いたいことを言い尽くしたあたりから徐々にトーンが弱まった様子になり、やがて冗談交じりにさえなり、最後は何事もなかったように普通の会話のように終わる、という光景が米国ではよく見られます。表面的には、お互い感情を抑えて論理的なやり取りに終始します(少なくともしようとします)が、やはり人間ですから、その奥底に「何だコイツ」的な感情は絶対にあります。

 それが分かるのは、同僚たちがさまざまな場面で漏らすちょっとしたセリフや仕草に触れたときです。毎日同じ職場にいればそのような機会はたくさんあり、そういう中で「なぁんだ、やっぱりこの人、あの時議論してた相手の事を煙たいヤツと思ってるんだ」などと感じる事がよくあります。それでも、そういった裏側を無理やりにでも隠して表に出さないことが大人であり、プロフェッショナルであるという意識は非常に強いものです。