1967年に東芝に入社後,半導体プロセス技術研究所所長などを経て2001年に東京大学の客員教授に就任した。
1967年に東芝に入社後,半導体プロセス技術研究所所長などを経て2001年に東京大学の客員教授に就任した。
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 都会のど真ん中に50階のビルを建てて農場を作る——。そう真剣に話すのは東京大学 先端科学技術研究センター 客員教授の奥村勝弥氏である。東芝で30年以上にわたり半導体プロセス技術の研究開発を指揮した経験を生かして,現在は東京大学でMEMS技術の研究を手掛けている。半導体とMEMSがどのように農業に関わっていくのか聞くとともに,その発想がどのように生まれたのかを奥村氏の技術者人生から紐解く。

奥村氏は,日本の将来を考えたときに,ハイテク農業が最も適していると説く。

——なぜハイテク農業なのですか

 20年,30年先まで考えたときに,日本の技術は何で一番になれるだろうか。何に力を入れるべきか。ITや通信,バイオ,薬,自動車などは米国や欧州,将来はインドや中国などに勝てないかもしれない。日本が一番になれるとすれば農業,それもハイテクを駆使したハイテク農業だと考えている。

 日本は,新たな農業の創出に適している。そう言われて驚くかもしれないが,食の安全や安心が叫ばれている中で,これからの農業に必要な次の三つの要素を満たしているからだ。(1)味覚のセンスに優れていること。(2)食べ物を扱う上で大切な衛生観念が徹底していること。(3)最後はハイテク技術があること。この三つをすべて満たしているのは,世界の中でも日本くらいと思う。

——半導体やMEMSをどのように利用するのですか

 ハイテク農業の工場では,各種センサを用いながら空調や循環水,光などを制御して,農作物の成長を管理する。空調管理や循環水などには半導体工場の技術が,光源にはLEDが,センサにはMEMS技術がそれぞれ役に立つ。IT技術を駆使した需要予測に基づいて生産すれば,作りすぎや,不足がなくなるだろう。このほかにもハイテク農業は,さまざまな技術を吸収する。例えば,工場を動かすためのエネルギー源も必要になる。エネルギーを蓄えるための効率の良い電池をどのように作ればいいかも考えているところだ。

 既にハイテク農業を目指した動きが世の中にあるが,彼らが考えている先を行きたい。現在,専門家らと話をしている。

——日本は土地が狭いですが

 例えば50階建てのビルを建てて農地にすればいい。ハイテク農業の工場だ。各階を高さ方向に半分に仕切れば100層になる。つまり土地を100倍に使えるのだ。農作物は二酸化炭素を吸って,酸素を出してくれる。大都市のど真ん中に工場を作っても,どんどん二酸化炭素を減らしてくれるから,立地に困ることはない。100億円程度で工場を作って野菜を作ったり,そのプラント自体を輸出したりしたい。

半導体を手掛けていた奥村氏が,なぜ農業に関心を持つようになったのか。そこには,さまざまな技術を担当しながら,常に誰もやってないことを目指す奥村氏の姿があった。

——ずっと半導体の研究を手掛けていたのですか

 メーカー時代は,半導体の世界にどっぷり浸っていたわけだが,最初から半導体に興味があったわけではなかった。大学では物性物理を学び,超伝導をやりたくてメーカーに入った。しかし入社すると,景気が悪くなって超伝導をやめると言われた。当時の新入社員の1/3がコンピュータ事業部へ配属される時代で,自分もその中の一人となった。その1年後に真空管を,さらに3年後に液晶を担当し,その3年後に半導体にたどり着いた。

——3年ごとに別のテーマに移っています

 自分は,だいたい3年経つとそのテーマが飽きてくる。人の集中力は3年間が限度。世の中に「3年計画」と名の付くものが多いのは,そのためだろう。半導体を始めたときも,3年後は別の研究をしようと思っていた。しかし,半導体はちょうど3年で1世代の開発が終わる。飽きたころに,次がやりたくなる。その繰り返しだった。ハッと,気付いたら10回も引っかかってしまったよ。

——常に新しいテーマにチャレンジしたいと

 誰もやってないことをやりたい。だから,他人の論文を読んで追試するのは大嫌いだ。新しいことは論文に載っていない。自分の感性を信じて,直感で決める。玉石混交の情報から,必要な情報を見極めるうちに,直感が鍛えられた。話を聞いて,その人が面白い情報を持っているかどうか,すぐに分かるようになった。

——どうやって情報を集めるのですか

 上司が持ってきた英字新聞の切れ端がキッカケで液晶の研究を始めたことがある。「君,これをやりなさい」と。記事には「liquid crystal display」とあった。しかし,「液晶」なんて言葉を聞いたこともない。うわさなどを頼りに,あらゆる手段で情報を集めた。例えば,新聞に液晶に関連する記事が載ると,新聞社に電話を入れる。取材先などを詳しく教えて下さいと記者に言っても,当然それはできないと返ってくる。でも,記事が面白かったとか,もっと勉強したいとか,熱意を伝えると,先方も熱意にほだされて情報を教えてくれるようになる。このときの経験で,情報収集力がついたと思う。

 椅子に座っていても誰も教えてくれない。だから,誰のところへでも,のこのこと出かける。興味があればどこへでも行く。すぐに電話をかける。そうした習性は今でも変わらない。

仕事一筋かと思いきや,残業を一切しなかった時期もあるという。仕事とプライベートで培った人脈が,新たな発想を生む源泉になっているようだ。

——今でも異分野の講師を呼んで勉強会を開いているようですね

 昔から子供のように好奇心が旺盛だった。メーカー時代は,30代半ばまでは残業をしていたが,その後は出社時間が早いこともあって一切残業をしなかった。アフターファイブは,いつも社外の友人たちと新宿で過ごしていた。彼らは半導体のことなど全く知らない人たちばかり。芸術やパチンコ,あらゆる話をして,さまざまなことを学んだ。

 現在も,年に10回ほど勉強会を開いている。5年間続けているが,前回は脳外科の専門家に話をしてもらった。専門家が30分話して,我々が30分質問するのを繰り返して,合計で2時間半になる。これが,新しい知識を取り入れる源泉になっている。好奇心があるから生きていける。好きなことだったら,いくら考えても疲れない。

——若い研究者に何かアドバイスはありますか

 今は,好きなことをするよりもお金をもうけたい,という人が多いのではないか。金だけのための人生なのか。好奇心をもたない人生とは何なのか。ただし,好奇心があるといっても,最初からあれもこれもというのはよくない。つまみ食いは役に立たない。これなら負けないというものをまずは一つつかむべきだ。好きなことができるように,実力を蓄える必要がある。その後は,その道一筋で続けてもいいし,新しい道へと広げてもいい。とにかく,好きなことをやればいい。