シンガポール政府は1997年から2002年までに合計6,500万シンガポールドル(約49億円,1シンガポールドル=75円で計算)をナノテクノロジー関連の研究開発に投じた(2002年6月19日付の記事参照)。年平均にすると約8億円で,年間500億円以上を投じる日本や米国のナノテク予算に比べると少額だが,シンガポールにとっては過去の年間研究開発総額の平均を上回る支出。シンガポールでは政府が中心となり,米英などのナノテク関連企業を厳選して誘致し,ベンチャー企業を設立するなど,ナノテクビジネスの振興に力を入れている。技術開発や人材活用,企業化などの面で,シンガポールは投資の絶対額だけでは計れない成果を生み出している。

■各省庁が結束,学際的な研究開発を推進

 ナノテク振興に関する同国の特徴は,ハードディスクの開発で培った知識・技術を活用できる高密度データ記憶技術と,これまで弱かった医療・バイオの分野に選択的に集中して取り組んでいることである。公用語が英語であり,国内の大学卒業者数の延べ70%以上に相当する学生が,英,米,オーストラリア,ニュージーランドのいずれかに留学(図1)しているのも特徴で,欧米とのパイプも太い。科学技術立国政策のもとでこれらが相乗的な効果をもたらしており,ナノテク関連ではアジア地域で最も急成長が予想される国の1つといえる。

 シンガポールはハードディスクの生産で世界シェアのトップを占めるだけでなく,さまざまなIT(情報技術)関連機器分野で急成長を遂げてきた。政府が次に最優先して育成する技術分野として選んだのがナノテクノロジーである。この方針に基づき,経済産業省(MTI=Ministry of Trade & Industry,http://www.mti.gov.sg/)の下にある経済開発庁(EDB=Economic Development Board,http://www.sedb.com/)と科学技術庁(A*Star=Agency for Science, Technology & Research,http://www.a-star.edu.sg/)が共同でナノテクの基礎研究と産業化を推進している(図2)。日本と違って省庁間の結束力は強く,EDBの長官はA*Starの副長官を,A*Starの長官はEDBの副長官をそれぞれ兼務している。また,文部省(MOE=Ministry of Education,http://www.moe.gov.sg/)は2つの国立大学を所管しているが,大学の敷地内には国立研究所が設置されたりしていて,大学の教官が国研の研究員を兼務するなど,MTIとMOEのつながりも強い。

 大学と国研の連携による成果の1つに,シンガポール国立データ記憶研究所(DSI=Data Storage Institute,http://www.dsi.a-star.edu.sg/)ナノスピン電子工学プログラムのマネージャーで,シンガポール大学電気工学科助教授のYihong Wu氏らが開発した“壁状”の新型ナノカーボン素材「カーボン・ナノウォール」(写真1,2002年7月3日付の記事参照)がある。Wu氏はナノウォールを開発して以来,新しい磁気記録メディア用材料として研究を進めてきたが,最近,FED(フィールド・エミッション・ディスプレイ)用の陰極材料としても適していることを実験で確認した(2002年12月3日付の記事参照)。この成果を受け,シンガポールが薄型ディスプレイ産業の分野にも進出する可能性が出てきている。(日経ナノテクノロジー 黒川 卓)

※〔シンガポールナノテク最新事情(下)〕(2003年1月21日付)に続く
※この記事は,日経産業消費研究所が発行するニューズレター『日経先端技術』のNo.29(2003.01.13発行)の「ナノテク産業スコープ」欄に掲載された記事を再構成したものです。

【図1】シンガポール人学生が卒業した大学の国と卒業者(1991~2000年の10年間合計)
【図1】シンガポール人学生が卒業した大学の国と卒業者(1991~2000年の10年間合計)

【図2】シンガポール政府のナノテク研究開発体制組織図
【図2】シンガポール政府のナノテク研究開発体制組織図

【写真1】シンガポール大学のWu氏らが開発したカーボン・ナノウォール。上段左は円状に密集して成長したナノウォール。この写真内にb,c,d,e,fと記した枠内の拡大写真がそれ以外の5枚。a,b,cのスケールバーは1μm,d,e,fは100nm
【写真1】シンガポール大学のWu氏らが開発したカーボン・ナノウォール。上段左は円状に密集して成長したナノウォール。この写真内にb,c,d,e,fと記した枠内の拡大写真がそれ以外の5枚。a,b,cのスケールバーは1μm,d,e,fは100nm