日経ものづくり ドキュメント

機械式腕時計の復活 最終回

いつかは 「SHIZUKUISHI」

機械式腕時計を復活させて10年。セイコーインスツルメンツの売り上げは,ついに年間1万台を超すまでに成長する。生産効率を高めるために,製造子会社である盛岡セイコー工業に部品製造から組み立てまでの一貫体制も構築した。しかし,そこにある組み立て室は,高級式腕時計が生み出されるには,あまりにも貧弱なものだった。



 1998年の,複雑時計のクロノグラフと最高級ブランド「グランドセイコー」の商品化により,セイコーインスツルメンツ(現セイコーインスツル)の機械式腕時計事業は完全復活を果たした。看板モデルの誕生により,販売には弾みがつく。2000年は約5000個,2001年は約8000個,そして2002年には1万個の大台を突破。この間に,事業は黒字に転換した。
 生産体制も改まる。部品製造は岩手県の盛岡セイコー工業,組み立ては千葉県の大野,高塚両事業所という分散体制から,盛岡セイコー工業に部品製造から組み立てまで全工程を集約する一貫体制に。雫石にある盛岡セイコー工業の,この機械式腕時計部門は2002年4月「高級時計職場」としてスタートを切った。
 1カ所に全工程を集結した効率的な生産体制。最初は,このことに疑いを抱く者などいなかった。しかし,右肩上がりに増える注文に対し増員を繰り返すうちに,職場,とりわけ組み立て室は次第に手狭になっていった。気付くと,そこは「空気が薄いと感じられるほどの高い人口密度」に。劣悪な職場環境は,生産性が上がるどころか,かえって下がり兼ねないくらいだった。
 組み立て室を拡張する─。2003年11月に盛岡セイコー工業の社長に就いた西郷達治は着任早々,大きな決断を下した。
「職場環境の改善に併せて,もっと上を目指すことを考えました。確かに,セイコーの機械式腕時計は順調に伸びていた。とはいえ,1990年代後半からの高級機械式腕時計ブームの再燃で,日本の10万円以上の機械式腕時計の市場規模は年間約50万個に達したのに,セイコーのシェアは3%にすら届かない。果たして,この程度で機械式腕時計は完全復活したと言えるのか。言えないでしょ。だから,私はシェア2割,年間10万個の目標を課したんです」
 西郷は2003年末,組み立て室の拡張工事に伴う予算を3700万円計上する。増産を視野に,組み立て室のスペースを広げて作業台を増やす。これなら,3700万円で十分。西郷はそうそろばんをはじいた。