車載向けテレマティクス・サービスの実用化を目指すFord社は,1億米ドルを投資して新会社を設立した。
ところが,間もなくシステムをめぐって大きく方針転換することになり,新会社にも従うように迫る。 遅々として進まない交渉に,やがて大英断が下された。

((a ~b),(d),(e)は Ford 社,(c )はiSuppli社の提供。)
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 これで,Bluetoothは実用化への道を歩み始めるはず─。2002年春ごろ,Bluetoothの標準化団体であるBluetooth SIGがいくつかの仕様を完成させたことを受けて米Ford Motor Co.はこう判断し,Bluetoothを利用したテレマティクス・システムの製品化を目指してアクセルを踏み込もうとした。

 ただ,既に同社は専用の通信モジュールを搭載するテレマティクス・システムに向けたサービスを開始するために1億米ドルを投資し,米Qualcomm Inc.と共同で米Wingcast LLCを設立していた。新会社のビジネスモデルでは,テレマティクス・サービスを利用するときに生じる通信料金は,従量制でユーザーに負担してもらうことが前提だった。

 ところが,Bluetoothの実用化が見えてきたことで,Ford社は車載専用の通信モジュールを使うのではなく,ユーザーが所有する携帯電話機のBluetooth機能を活用した方が柔軟性の高いサービスを実現できると判断した。これは,Wingcast社のビジネスモデルを根底から覆すものだった。

 この新しい方針を受け入れてもらうために,Doug VanDagens(現Ford社 Connected Service Solutions,Director)らはWingcast社の幹部と何度となく議論した。だが,先方の返事は芳しくなく,膠着状態が続いた。

 ある日,難航している交渉の状況をVanDagensがFord社の上司に説明しに行くと,予想だにしない厳しいミッションが彼に与えられた。「では,君がWingcast社の幹部になって向こうに乗り込み,同社の解散を指揮せよ」というものである。彼の下,2002年7月にWingcast社は解散した。

Ford社とQualcomm社の合弁企業であるWingcast社の解散を発表したプレスリリース(左)と,歯車を用いてSYNCの基本コンセプトを説明したプレゼン資料(右)。
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iPodが自動車に与える影響

 「Wingcast社はネットバブル時代のプロジェクトだった。あのまま事業を続けていても,うまくいかなかっただろう」─。こう振り返るのは現在,SYNC事業を担当するFord社 Global Electrical and Electronics Systems Engineering(EESE),DirectorのJim Buczkowskiである。

 データ記憶容量を増やすために自宅のHDD録画機をいじることさえある家電好きな彼は,Wingcast社が解散したころ,米Apple Inc.が発売した携帯型音楽プレーヤー「iPod」の人気が高まっていることが気になっていた。そして「やがて,多くの人たちはiPodのような新しい機器をクルマに持ち込んで,車内でも楽しみたいと思うようになるだろう。このとき,最新の機器はクルマに接続することができないとなれば,大きな問題になるはず」と感じていた。

 製品サイクルが短くて次々と新製品が登場する家電機器と,所有期間が長くてレガシーな自動車。製品の開発や寿命などの点で,両者のスピード感は大きく異なる。そのギャップを埋めない限り,両者を「つなぐ」ことは永遠にできない。

 メンバーらはこうした事実を社内の技術者たちや幹部に知ってもらうため,両業界を「歯車」に例えて説明し始めた。自動車業界という歯車はゆっくり回り,家電業界という歯車は素早く回る。この二つの歯車を同期させる必要があるのだ,と…。

 こうした取り組みの結果,Ford社は2004年ごろに「built-in, brought-in, beamed-in」と呼ぶSYNCの基本的な開発コンセプトを決めた。built-inはユーザーの端末を接続する仕組みを車内に設けること,brought-inはユーザーが車内に端末を持ち込むこと,そして「beamed-in」はその端末のデータを車内に流すことを意味していた。