エフエーサービスの湯之上隆氏
エフエーサービスの湯之上隆氏
40代,男性半導体技術

【事例1】
早期退職でやむなく転職
最後に救ってくれたのは人脈

 「自分を助けたのは人の縁だった」─湯之上隆氏は,自分の流転の半生を振り返ってそう語る。

 同氏は,1987年に日立製作所に入社して2002年10月に退社するまでの16年半,半導体の微細加工技術の開発に従事した。中央研究所,半導体事業部,デバイス開発センター,エルピーダメモリ出向,半導体先端テクノロジーズ(セリート)出向と所属が移り変わった。その間,日本のDRAM事業は世界のトップから凋落の一途をたどっていった。2001年に半導体業界は極めて深刻な不況に陥り,国内メーカーはこぞって数万人規模の大リストラを敢行した。日立の半導体部門でも40歳以上,または課長職以上を対象として早期退職勧告が行われた。2002年にちょうど40歳になり,課長職でもあった湯之上氏もその対象となった。

3度の面接で退職を決断

 「最初は辞める気はなかったけれど,都合3回の早期退職の面談を受けて最後は辞める決断をした」。日立を出て違う分野で活躍したいという思いもあった。実は,エルピーダへの出向は,そうした気持ちもあって自ら申し出たものだった。

しかし,決断したものの転職先を見つけるのは想像以上に困難だった。転職サイトに登録したり,自分で売り込みをかけたりしたが,メーカーは軒並みリストラの最中であり,「40歳以上と分かると会ってもくれなかった」。送った履歴書は23通。そして23通目で初めて面接に応じてくれた会社に転職が決まった。

 ただ,運が悪かったのは,転職先を見つけて会社に退職を申し出たのが,早期退職制度の募集期間を1週間ほど過ぎていたことだ。そのために,年収の約2倍という退職金の優遇措置を受けることができなかった。退職金はわずか100万円ほどだったという。

 しかし,ようやく見つけた転職先も会社の方針が合わずに半年ほどで辞めてしまい,また職探しに奔走することになった。こうした不安定な状況を結果的に救うことになったのは,「学位と人の縁だった」と言う。湯之上氏は,2000年に「半導体素子の微細化の課題に関する研究開発」という論文で,京都大学から工学博士号の学位を取得していた。それによって転職の門戸が企業以外,すなわち大学にまで広がった。2003年には,期間限定ながら長岡技術科学大学と同志社大学でそれぞれ,工学研究と社会科学研究の職を得た。

 このとき,大学への道を切り開いてくれたのは「学会やセリートで知り合った日立社外の友人・知人だった」。例えば,長岡技術科学大学のポストは,セリート時代の上司である有門経敏氏が,「自分はもう疲れたから」と言って譲ってくれたものだ。また,学会で知己を得ていた一橋大学教授(当時)の藤村修三氏は,大学への推薦状を書いてくれた。さらに,藤村氏を通じてあるプロジェクトで知り合った同志社大学の先生が,彼を同大学に誘ってくれたという。

三たび無職に

 ところが,湯之上氏の試練は続いた。ある半導体製造装置の商社から長岡技術科学大学を通じて8~12インチのシリコン・ウエハーを再生して利用する研究を委託された湯之上氏は,2008年4月にその会社で研究開発をすることになった。だが,世界同時不況の波を受けてその会社が倒産状態になり,湯之上氏は三たび無職となった。何としてもウエハー再生を事業化したいという思いで投資先を探したが,なかなか見つからない。「初めてハローワークに行った」というほどに,苦しい状態だった。

湯之上氏の略歴
湯之上氏の略歴

 そのピンチを救ってくれたのも人の縁だった。ある知人が,エフエーサービスという会社を彼に紹介してくれたのだ。その人は,同志社大学時代の湯之上氏の講演を聞いて,面白いとほれ込んでくれた人だった。エフエーサービスは板金装置のソフトウエア開発が主力であり,半導体にはほとんど無縁の会社である。しかし,同社の社長は湯之上氏の技術の将来性を認め,いずれ事業化のメドが付いたら別会社にしようとまで言ってくれた。

 湯之上氏はセリート時代に人脈が10倍に,同志社大時代にさらに10倍に広がったと言う。「技術者はいろいろなことに興味を持って,外向的に生きることが後々役に立つ」。日立以降の彼の人生を見れば,その言葉にはとても説得力がある。