サボンリンナの古城の前で撮影。中央で眼鏡をかけているのが内海氏。これから,Nokia社の重役とオペラ「Don Carlos」を見に行くところである。

 内海の傍らには,Nokia社の移動通信部門であるNokia Mobiraの事業部長だったJorma Nieminenなど,Nokia社の重役が勢ぞろいしていた。今日はサボンリンナでオペラ鑑賞を楽しんで,その後,夜中すぎまでたっぷりと会議をするというスケジュールだ。白夜の中,長い1日が始まろうとしていた。

 内海がフィンランドに招かれたのは,Nokia社と,RadioShackを運営していた米Tandy Corp.が当時,携帯電話機の製造販売で提携したためだ。Nokia MobiraとTandy社が共同で,合弁企業のTandy Mobira Corp.を立ち上げた。このTandy Mobira社の製造工場のマネジメントを,内海が務めていたのである。

Nokiaと合弁企業を立ち上げ

当時のNokia社は多数の事業を抱えるコングロマリットで,パソコンやテレビなども製造販売していた。移動通信関連はまだ,NMT(nordic mobile telecommunication system)というアナログ方式の携帯・自動車電話機を小規模に製造していただけだったが,1984年に世界初のNMT方式の可搬型自動車電話「モビラ・トークマン」を発表するなど,技術開発は進んでいた。

 一方のTandy社は1980年代前半に,米国で第1世代のアナログ携帯電話方式であるAMPS(advanced mobile phone service)が登場して以来,RadioShackの店頭で携帯電話機を販売しようと画策していた。スウェーデンEricsson社にまず声を掛けたが,契約面で折り合いがつかなかった。次に声を掛けたNokia社が,北米市場におけるRadioShackの強い販売網に期待を寄せ,合弁企業設立に合意していたのだ注2)

注2)Tandy社はAMPS方式の携帯電話機について,日立製作所の東海工場にも製造を依頼した。日立の東 海工場はこのほかにも,内海の依頼により,かなりの品種の電子機器をRadioShack向けに製造したという。

 Nokia社とTandy社の合弁企業の製造拠点は,韓国の馬山にある工業団地に設置された。内海は当時,日本や韓国,台湾など東アジア地域におけるTandy社の製造部門を統括する立場だった。そのためNokia社との合弁企業に関しても,内海に委ねられた。

 内海のミッションは,韓国の工場に携帯電話機の量産ラインを立ち上げること。ここで製造した電話機を独占的にRadioShackに供給し,全米数千店の店舗で販売する仕組みである。

フィンランドからの電話

「内海さん,大変です」

 Nokia社との合弁工場の建設を韓国で進めていたある日のこと。内海は,フィンランドに派遣していた部下から,突然電話を受けた。かなり慌てた様子だった。

「どうした。何かあったのか」

「大変です。こちらの工場は自動化が全くゼロです。全部,手作りでやってます」

「なに,そりゃ本当か」

Nokia Mobiraの責任者だったNieminen氏との1枚。内海氏とNieminen氏はプライベートの付き合いも深く,同氏がBenefon社を立ち上げた際にも相談に乗っていた。

 内海が部下をフィンランドに送っていたのは,携帯電話機の製造ノウハウを取得するためだった。Nokia社との合弁工場を立ち上げるには,携帯電話機向けの自動化量産設備を構築したり運用したりするノウハウが不可欠になる。Nokia社のフィンランドの工場で,それらを取得する目的で,内海は約20人の技術者を研修に送っていた注3)。ところが,派遣した技術者によれば,当地では1台1台を手作業で製造しており,全く自動化が進んでいなかった。当時は Nokia社といえども,携帯・自動車電話機の販売数量はそれほど大きくなかったためとみられる。

注3) 内海の腹心の部下には,当時東京都・調 布にあったTC電子の技術者がいた。TCとは Tandy Corp.の略。Tandy RadioShack向 けに電子機器を製造する工場として,1970年 代初頭に誕生した。当初は設計から製造まで 手掛けていたが,その後設計開発のみとなり, 製造は韓国にあるTandy Electronics Korea などで手掛けるようになった。