貨物から衣類、大根に至るまで…。
ありとあらゆるモノを識別するのに使える無線タグIC。
その先駆けとなった「ミューチップ」を開発したのは日立製作所の中央研究所に勤めるベテラン技術者、宇佐美光雄氏である。
ミニコンの営業部門に籍を置いていたこともある異色の経歴の持ち主だ。
「研究者であっても、研究成果の用途を常に意識していなければならない」。
経験の中で培ったその信念こそが世の中をあっと言わせるICを生んだ。

 夕日に照らされたアスファルトの道路に男たちの長い影が伸びていた。ここは東京・品川から国電の京浜東北線で2駅目の大森。にぎやかに談笑しながら歩く彼らは,日立製作所のコンピュータの営業部門で席を並べる仲間である。石油ショックの余韻冷めやらない1975年のことだ。

 男たちの向かう先は近くにあるゴルフ練習場。そこに行くのは定時退社日である水曜の恒例行事となっていた。ゴルフをたしなむ営業担当者は多い。彼らの中にもプロ顔負けの腕前を誇る猛者がいた。

「スコーン」

「ナイスショット! いいねぇ~」

 ゴルフ談義に花を咲かせながら,おのおのの打つ白球が夕焼け空に向かって真っすぐ飛んでいく。そんな中でただ1人,他とは違う雰囲気を醸し出している男がいた。彼の名は宇佐美光雄。それもそのはず,宇佐美はつい最近までコンピュータを売る立場ではなく,開発する立場にいたのだ。黙々と開発に打ち込む技術部門と,ある意味で豪放磊落らいらくな営業部門とのギャップにまだ慣れずにいる,入社4年目の若い技術者の姿がそこにあった。

宇佐美光雄氏。現在は,日立製作所中央研究所所長付知能システム研究部研究主幹である。1971年に東京工業大学を卒業し,同社に入社した。

 畑違いの営業部門での経験は,宇佐美の技術者としての人生に大きな影響を及ぼすことになる。後に宇佐美が開発するゴマ粒大の無線タグIC「ミューチップ」も,開発部門一筋に仕事を続けてきたら,日の目を見なかったかもしれない――。

出発点はミニコンの開発

 日立製作所に宇佐美が入社したのは1971年のこと。コンピュータ業界に「巨人」として君臨していた米IBM Corp.がそれまでのICではなく,より集積度を高めたLSIを搭載するメインフレーム「IBM370」を発表した年である。理工系大学の卒業を控えた宇佐美は「これからは大型計算機ではなく,もっと小型のコンピュータが主流になる」と考え,就職先として大手コンピュータ・メーカーの1つである日立製作所を選んだ。

 宇佐美は入社後,希望通りに名古屋にあるミニコンの開発部門にすんなりと配属された。メインフレームよりも大幅に安い価格を売り物にした日立製作所のミニコンは,当時市場で話題を集めていた。大学でコンピュータ工学を専攻した宇佐美に対する職場の期待は高かった。入社2年目には次世代のミニコンに向けた論理設計を身に付けるべく,東京の国分寺市にある中央研究所に派遣されたほどだ。