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 群雄割拠の戦国時代――。1990年代のビデオ・カメラ市場は,こう表現するのがふさわしい。当時,熾烈なシェア争いが繰り広げられていた。ソニーが築いた「パスポート・サイズ」の牙城を,松下電器産業は「ブレンビー」で切り崩す。続いてシャープが「液晶ビューカム」を投入。見る見るシェアを伸ばし,1994年には2位に躍り出た。そうこうするうち1995年にはDV方式のビデオ・カメラが実用化を迎え,デジタル記録時代が到来する。この転換を契機に,各社はここぞとばかりに高画質化や小型化でせめぎ合った。

 手ブレ補正技術も,大きな転換期を迎える。技術の主流が電子式から光学式へと流転するのだ。当時のビデオ・カメラは,1990年のブレンビーの登場を契機に手ブレ補正技術の搭載が当たり前になりつつあった。キヤノンやソニー,日立製作所,三菱電機などが相次ぎ採用する。松下電器産業は電子式の手ブレ補正技術で普及に先鞭せんべんをつけていたが,1つの決断を下す。電子式に代わって光学式を採用することだ。そして「インナー・レンズ・シフト方式」と呼ぶ補正機構を1999年に実用化する。そしてこれこそが,間もなく到来するデジタル・カメラ時代の手ブレ補正技術のいしずえになる。

 松下電器産業における技術開発の流転は,順調に進んだわけではない。そこには手ブレ補正の技術開発のバトンを受け継いだ技術者たちによる,並々ならぬ格闘があった。

電子式の限界が見え隠れ

日下くさか君。手ブレの件,進捗を聞かせてくれへんかな?」

「はいっ,その件なんですけど…」

 ここは大阪府門真市にある松下電器産業の開発拠点。ちょうどビデオ・カメラのシェア争いが激化していた1990年代前半のことである。ビデオ・カメラに向けた要素技術の先行開発を取りまとめていた中山正明は,しばしば日下博也に声を掛ける。中山は手ブレ補正技術を発展させる任務に,日下を充てがっていた。

 日下が松下電器産業に入社したのは,ブレンビーの初代機の開発がちょうど佳境を迎えていたころのこと。当初は右も左も分からなかったが,何しろ日下の頭の回転はピカイチの速さである。ブレンビーの電子式の技術をベースに,次々に手ブレ補正の改良を加えていく。2段階の補正アルゴリズムの導入も,その1つだ1)。電子式には当時,コスト増と解像度の低下という2つの課題が指摘されていた。大容量の画像メモリを用意したり,画像の一部を切り取ったりする必要があったからだ。日下は経験の浅さをはねのけて,この解決を狙う2段階の補正アルゴリズムの実用化にこぎ着ける。

1) 日下,「手振れ補正機能の高解像度・高性能化」,『画像電子学会誌』,第31巻,第6号,pp.1183-1191,2002年.

2段階の補正アルゴリズムを適用した高解像度電子補正方式の原理
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