(前回から続く)

 1995年末,JR東日本の会議室は重苦しい空気に包まれていた。

 同社は1995年4月から10月まで,自動改札機の第二次フィールド試験を実施した。非接触ICカード導入の可否を決める重要なテストである。結果は芳しくなかった。ゲートが誤って閉じる「通過阻害率」は数%。磁気カード式改札機の4倍と高い。試験の責任者であるJR東日本の椎橋章夫と三木彬生にとって,この値は「失敗」を意味した。首都圏では, 1分当たり60人以上もの乗客が改札機を通る。この値では大渋滞が起きかねない。

 椎橋は,乗客の動きをビデオで分析した結果を示した。

 「カードをかざす時間が0.2秒を切る乗客がかなりいる。カードの処理時間を何とか0.1秒に縮めたいが…」

 ソニーの日下部進が口を挟む。

 「開発中のチップは処理性能を4倍に高めていますが,通信速度は変わりません。正直,0.1秒は至難です」

 三木はため息をついて天を仰いだ。

 日下部は,複雑な思いで三木らを見つめた。日下部にとって,この時の試験は香港の自動改札システムに納入するカードのテストを兼ねていた。香港のシステムが要求する仕様は,今回の結果でも満たせたが,それとてギリギリまで努力した結果である。その先へ行く手段は,にわかには思い浮かばない。

 開発は膠着状態に陥った。

「かざす」から「触れる」へ

 もう何度開いたか知れないJR東日本の会議で,誰かがおずおずと口にした一言が突破口になった。

 「『かざしてください』ではなく『触れてください』と言ってはどうでしょう」

 チームの面々は一瞬,狐につままれた。非接触をうたうICカードなのに「触れる」とは何事か。

 三木は考えた。カードを読み取り面にタッチすれば,カードの軌道はV字を描く。カードをかざす場合の直線的な軌道よりも,距離は延びる。わずかな差に見えても,コンマ何秒を争う場合ならば効果があるかもしれない。