(前回から続く)
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「濱ちゃん,サイコロの振り方,間違ってへんか?」

 電話の向こうで,男は落ち着いた抑揚で言った。三菱電機 取締役 通信システム事業本部長の中西道雄である。

 1999年2月。三菱電機は満を持してNTTドコモの立会い検査に臨んだ。しかし結果は不合格。複数の携帯電話機から同時に電子メールを送った結果,幾つかの端末に電子メールが戻ってきてしまったのだ。沈痛な面持ちで,通信システム統括事業部 移動通信端末事業センター 技術第一部長の濱村正夫は,上司である中西に報告の電話をかけたのだった。

「えっ。サイコロですか…」

 濱村は,土壇場で致命的な過失が発覚したことに対し,中西が怒鳴り声を上げることも覚悟していた。予想に反した中西の冷静な返答に驚きながらも,懸命に言葉の意味をかみ砕こうとした。

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「ええか? ぎょうさんのメールを1つの基地局に一遍に送ろうとすれば,メールは我先にと競争する。だからサイコロ振って,こっちで順番決めたらなあかんのや。それができてへんから,うまくいかんのと違うか。そうやろ」

 中西は自信に満ちた口調で濱村を諭した。濱村にとってはまさに青天の霹靂(へきれき)だった。

本部長の大ヒット

「こりゃ,もしかしたら本部長の大ヒットかもしれない」

 1つの基地局に対し,複数の携帯電話機から同時に電子メールが送信されると,基地局で衝突が生じて端末に処理が戻ってくる。携帯電話機は組み込んだソフトウエアで乱数を発生させ,電子メールを再び送信するパケット通信チャネルをずらす。このとき乱数がうまく生成できていないと,異なる端末が同じチャネルに電子メールを送出し,何度やっても電子メールが衝突してしまう。不具合の症状から見ると,乱数を発生させるソフトウエアにバグがあるというのが,中西の判断だった。中西の主張には説得力があった。衛星通信の技術畑を歩んできたベテランで,パケット通信技術に精通しているからだ。

 濱村は電話を置くとすぐさま大部屋の技術者たちに招集をかけた。

「お前ら,全員ケータイを両手に持ってそこに並べ。早く,早くしろ」

 昼食から戻り,机に向かっていた技術者たちは濱村の尋常ならざる興奮ぶりを察して身をすくめた。不具合が見つかったことは既に全員知っている。雷が落ちる。一同神妙に席を立った。

「早くしろ。お前はそこだ。違う,1列に並べ,全員オレの方を向け」
 20人の技術者たちが,言われるままに濱村の前に整列した。

「いいか,今から俺が手をたたくから,その合図に合わせてメールを送れ。同時にだぞ。遅れるな」

「3,2,1,送れ!」
 濱村がパチンと手をたたき,技術者たちは一斉に携帯電話機の送信ボタンを押した。

 一瞬の沈黙。そして数人の技術者が恐る恐る手を挙げた。
「ダメです。やっぱり戻ってきます」

 何度やっても同じことだと,暗い雰囲気が辺りを包み込んだ。居並ぶ技術者を見つめ,濱村がニヤリと微笑んだ。

「まぁ,そうがっかりするな。なんでうまくいかないか。原因は多分…」

 濱村の口から,中西に聞いた内容が技術者に伝えられた。濱村の話が終わる前に,勘の良い技術者が1人,2人と次々に自分の席に駆け出していった。

 ――同じ日の夕刻。技術者から濱村の元に,不具合を発生させていたバグを発見したとの一報が入った。中西の予想は的中した。濱村は事務椅子に深々と腰掛け,ほっとため息をついた。

 ソフトウエアを修正し,ROMに焼き付ける作業を考えれば, 2月中の発売は不可能だ。それでも中西の指南に助けられ,何とか年度中の発売は実現できるだろう。

「まぁ,これで良しとしよう」
 何度も繰り延べになったゴールが,今度こそ間近に迫ったことを察し,濱村はささやかな解放感を味わった。

低調な1カ月

 1999年2月22日。「iモード」はひっそりと産声を上げた。広末涼子の登場にあれだけ沸いたマスコミも,サービスの開始自体を取り立てて話題にすることはなかった。数十社のコンテンツ・プロバイダーをそろえたとはいえ,得体の知れないサービスであることには変わりなく,ましてや端末が富士通製の「F501i」1機種とあっては,ニュース・バリューを疑問視されても不思議はなかった。

 1カ月たっても状況は好転しなかった。1999年3月23日付のWWWサイト「NE ONLINE」の記事にこうある。「NTTドコモのiモード,最初の1カ月は低調」。3月18日時点での契約数は全国でわずか1万4000。1月25日の発表会でNTTドコモ ゲートウェイビジネス部の榎啓一がぶち上げた目標からは絶望的なほど懸け離れていた。

榎啓一氏
NTTドコモ(当時)の榎啓一氏
(写真:的野弘路)

「あなた,初年度で300万台売るって言いましたよね」

 榎は,記者の取材を受けるたびに販売台数について詰問された。誰が見ても榎が記者会見で発表した300万台という数字は実現不可能に見えた。榎は笑顔で質問に応じながらも,心の中では冷や汗をかいていた。記者会見の席でとっさに口にしたひと言を,人知れず思い起こし青ざめてしまったこともある。

 それでも榎は持論を曲げなかった。

「当時,僕の周りで支えてくれていた人たちのことを考えると,売れないなんて口が裂けても言えなかった。携帯電話機はNTTドコモがメーカーに発注してこちらで買い取るわけですから,メーカーにとってNTTドコモはお客さん。こちらのいうことは何でも聞いてくれる。でも,メーカーの開発者にだって社内での立場がある。『売り出したものの,コスト割れで赤字でした』なんてこっちが言ったら,風当たりが強くなることは目に見えてる。夏野さんの言葉を借りればみんな腹をくくって同じ『ドロ舟』に乗ってくれているわけです。だから絶対に売れると言い続けました」

 榎らは信じた。サービスが世の中に認知され,端末の種類が増えていけば,必ずどこかで流れが変わると。

予想をはるかに超えて

 1999年3月24日。NTTドコモはiモード対応携帯電話機の第2弾を投入した。今度は2機種同時である。製品化の瀬戸際で不具合が発覚した三菱電機製の端末に,後手に回っていたNECの開発が追い付いた格好だ。

 このころから,風向きが変わり始める。対応機種が3つに増えた直後の1999年4月。iモードの契約数は一気に1ケタ上に跳ね上がる。4月23日付のNE ONLINE記事。「NTTドコモによれば,4月22日時点での累積加入数が11万を超えたという。…1カ月間で約10万の契約を獲得したことになる」。

 1999年5月20日。NTTドコモは松下通信工業製の携帯電話機「P501i」を発売した。サービスが始まってから3カ月が過ぎていた。

501iシリーズ

 この端末が決定打になった。P501iの発売を機にiモードの契約数はウナギ登りに増え始める。5月16日に18万5000台だった契約数は,それから3カ月経たない8月8日に100万を超えた。10月に200万を超えたころには,厳しい記者の叱責はいつしか賞賛の声に姿を変えていた。

 結局,榎の口を突いて出た300万という数字はうそにはならなかった。それどころか,サービス開始から約1年間で,契約数は400万を突破した。

 その後のストーリーは,エレクトロニクス業界に身を置く者ならば誰でも知っている。iモードは,1990年代の停滞した日本経済の中で,ひときわまばゆい光彩を放つ20世紀最後の大輪の花火になった。

派手な舞台の裏側で

「やっぱり,技術者こそが華なんです」

 iモードの立役者の1人,松永真理は当時をこう振り返る。松永や榎,夏野といったNTTドコモの面々は,彼女らを支えた無数の技術者の努力を今も忘れていない。

「富士通が端末を間に合わせてくれたおかげで2月中にサービスを開始できた。本当にありがたかった」

 こう語る榎は,長い間富士通製の端末を自分用としてボロボロになるまで使い続けた。

松永真理氏
NTTドコモ(当時)の松永真理氏
(写真:栗原克己)

 松永が今でも目頭を熱くするのはNECで端末の強度試験に立ち会った時のことだ。

「すみません。端末の落下強度に問題があります。液晶画面を大型化したため,ディスプレイ部分の強度が保てないんです。やり直しさせてください」

 NECの担当者は,床に落とし,破損した端末を松永に見せた。

「やめてよ。そんなことしたら,どんな機械だって壊れるに決まってるじゃない。もういいかげん…」

「ダメです。このままでは御社の仕様を満たせません。やり直しです」

 長年,出版畑を歩んできた松永にとって,信じられないかたくなさだった。傷ついた端末を前にして,松永ですらいたたまれない思いに包まれる。手塩にかけた製品を自らの手で破壊する技術者が平静でいられるはずがない。それでも一片の妥協も許さない技術者の姿勢に,松永の心は打ち震えた。

技術者に終わりはない

 iモードを作り上げた無数の技術者は休む間もなく前進を続けている。

「実は,501iの開発後期には,徐々に『502i』という声も聞こえ始めていたんです」

 何とか三菱電機と同じ日の発売にこぎ着けたNEC 第三パーソナルC&C事業本部 モバイルコミュニケーション事業部 第二基礎開発部 技術課長の西山耕平はこう語る。

「出荷が終わって少し休みをもらいましたが,502i,503iとずっと開発が続きました。501iほどではありませんでしたが,それぞれの難しさがありました。501iが終わって,ほっとする暇はなかったです」

 西山らのたゆまぬ努力はその後,大きな実を結ぶことになる。NECはN501iでこだわった2つ折りの筐体や大画面のディスプレイを後継機種でも引き続き打ち出した。iモードの浸透につれて,2つ折り端末の優位性が認められ, 2001年度についにNECは出荷台数で念願のトップ・シェアを獲得した。一度確保したトップの座を堅持すべく,西山らの奮闘は今日も続いている。

 他のメーカーの開発陣もNECに負けてはいない。iモード対応携帯電話機の投入で一番乗りした富士通は,その後もいち早く新世代の製品を投入するメーカーとして,名をはせている。「イージーセレクター」などの特色でユーザーを引き付けた三菱電機は,アンテナを本体に内蔵するなど他社にない独自路線を歩むことで,強いメーカーの一角を成している。

 サービス開始の1年半前,iモードの方向性を決定付けたNTTドコモの永田清人とACCESSの鎌田富久は,再び開発で手を組んだ。永田が責任を持つ第3世代携帯電話機「FOMA」の技術開発に鎌田は惜しみない協力を申し出た。2002年9月に,ACCESSはNTTドコモと共同でFOMA向けのブラウザを開発したと発表する。

鎌田氏と永田氏
ACCESSの鎌田富久氏(左)とNTTドコモの永田清人氏(右)
(写真:栗原克己)

「iモードという新しい試みに向けてブラウザを開発した思い出は,今でも印象が強いです。でも,僕ら技術者は過去を振り返ってばかりもいられません。常に誰も知らない最先端の分野でしのぎを削るのが技術者の醍醐味ですから」

 鎌田はこう言って,にっこりと微笑む。

誰かが使ってくれている

 松下通信工業もまた,携帯電話機開発の最前線で他社に譲らぬ活躍を続けている。シェアでこそNECの逆転を許したものの,業界最薄の製品を投入するなど,その実力は今も衰えていない。何よりもiモードを立ち上げたのは,松下が手掛けた端末だったのだから。

 P501iが発売された直後,この製品のソフトウエア開発部隊を率いた松下電器産業 マルチメディア開発センター 情報グループ 情報第3チームの主任技師 和田浩美は,久しぶりに夕闇が迫る前に家路を急いでいた。開発に着手してから1年間というもの,こんなに早い時間に家に戻れたことは無かった。

「キーン,コーン,カーン」

 JR京橋駅と京阪電鉄京橋駅とを結ぶコンコースで夕刻を知らせる鐘が鳴る。駅の構内は帰宅する学生や会社員,待ち合わせのOLでごった返していた。

 雑踏の中を急ぎ歩いていた和田の足がふと止まった。見慣れた携帯電話機を持った若者のカップルが目の前に立っている。女性が手にした携帯電話機を恋人らしき男性がのぞき込んでいる。2人は壁に寄り掛かり,談笑を始めた。

「あ,おまえ,これPやんか。かっこえーなぁ」

 和田の心に温かい気持ちが満ちてくる。

「ほんまに使うてくれてるんやぁ」

 和田はうれしさに目を潤ませながら,2人が改札の向こうに消えるまで見送った。

「あ,もうこんな時間や」

 カップルを見送った和田は,腕時計を見て急に走りだした。今日は家族に重大な報告がある。会社から1週間の休暇をもらえることになったのだ。

「夢にまで見たフィジーに行ける」

 ほおを火照らせた和田は,足取りも軽やかに,風のように改札口をくぐり抜けていった。

=敬称略

参考文献
1)松永,「iモード事件」,角川書店,2000年.

―― 完 ――