しかし,電波監理審議会が1993年に出した答えは,MUSE-ハイビジョンの実用化だった。理由は「1997年打ち上げのBS-4でのデジタルHDTV放送の実用化は時期尚早」というものだったと記憶している。しかし,「1997年に間に合わない」というのは単なる衛星打ち上げスケジュールの都合である。長期的な視野が求められるテレビの基本技術が左右されるわけにはいかない問題だった。デジタルHDTV放送の実用化の流れは止まらず,結局,1994年当時の放送行政局長の発言をキッカケに軌道修正が図られ,2000年12月に,BS-4後発機の4本のトランスポンダを利用したBSデジタル・ハイビジョン放送の開始へとつながるのである(図2)。

【図2 ハイビジョン開発から実用化までの変遷】(A)は広視野角ディスプレイの臨場感の効果を明らかにするために試作した装置を再現したものである。2005年開催のNHK放送技術研究所一般公開にて撮影した。(B)は松下電器産業(現在パナソニック)と日本ビクターが共同開発した第5世代品である。1999年に発表された。MUSE放送は2007年に静かに終了した。
図2 ハイビジョン開発から実用化までの変遷
(A)は広視野角ディスプレイの臨場感の効果を明らかにするために試作した装置を再現したものである。2005年開催のNHK放送技術研究所一般公開にて撮影した。(B)は松下電器産業(現在パナソニック)と日本ビクターが共同開発した第5世代品である。1999年に発表された。MUSE放送は2007年に静かに終了した。
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なぜMUSEは花開かなかったのか

 本誌は1994年5月9日号で,「放送もようやくデジタル化の波」という,タイトルの特集記事を掲載している3)。この記事に掲載されている2部の座談会は,筆者も記者の一人として参加していたので今でもよく覚えている。特に印象的だったのが,テレビの開発に携わる技術者の発言である。「何で普及しなかったのか。MUSEの世界が非常に狭いことが真っ先に挙げられる」「普及を考えると,技術者だけではなくソフトウエアも含めた開発担当者の数,言い換えると開発人口を増やす必要があったということだ」という一連の言葉である。

 要するに,開発人口の大小が,その技術の強さにも直結するということを指すのだろう。もともとハイビジョンは,放送発のテレビ向け技術として開発が始まった。放送という分野に限れば,MUSE-ハイビジョンに対抗できるような開発力のあるグループはほとんどなかった。HD-MACのように,政治的な理由で同様の技術は提出できても,異なる発想からそれを超えていくような技術ではない。

 DigiCipherの登場が「黒船」と表現されたのは,開発企業が米国企業だったからではないだろう。放送という枠で,もっと言うとNHK放送技術研究所主体という参加者が限られた形態で開発が進んできたことに対し,オープン・スタンダードであるMPEG技術が一気に迫ってきたということである。MPEGは,コンピュータや通信,AV機器など分野によらず,かつさまざまな国の技術者が開発を進めてきた。放送の場合は,地上波で6M~8MHz幅,衛星放送で27MHz幅程度に映像信号を入れ込むということを目標に技術開発を進める。1990年までは,その唯一,現実的な候補がMUSEだった。しかし,「AV機器,通信,コンピュータ業界などが共同で推進した技術において,目標が現実になった瞬間に産業の融合が視野に入り,開発人口の多い技術が駆逐していった」という構図だったのだろう。