実に面倒な「見る」
第2世代のデジタル・カメラがユーザーに受け入れられるためには,画像を「見る」体験の進化も欠かせない。デジタル・カメラのユーザー自らが撮った画像を「見る」という行為に存在する課題は,デジタル・カメラの黎明期から一向に解決されていない。
一言でいえば,面倒なのだ。
例えば,次女の七五三を控えた母親が,長女は七五三でどんな服を着ていたのか,ふと気になって写真を見てみようと思ったとする。
このためには,慌ただしい家事や仕事の合間にパソコンの前に陣取り,日付順に並ぶフォルダを一つひとつ開けたり電子アルバム・ソフトウエアを使ったりして目的の写真を探さなくてはならない。
ユーザーの中には,こんな手間が面倒で「まっ,いいか」とあきらめてしまう者もいるだろう。長女の七五三で楽しい思い出があったとしても,それに浸るせっかくの機会を失ってしまう。
もう一つ例を挙げよう。ユーザーの自宅に田舎の両親が泊まりにきたので,子供の写真を居間の大画面テレビで見てもらおうと考えたとする。
するとユーザーは,メモリ・カードを取りに書斎に行ってカメラから引き抜いてこないとならない。そしてテレビのメモリ・カード・スロットに差し込み,リモコンを操作し所望の画像を探してみて,ようやく「あっ,もうパソコンに転送しちゃった」と気付く。これが現実に起こるシーンである。
「見る」もお金になる
あえて厳しい言葉を使うならば,カメラ・メーカーはこうしたつまらない体験をユーザーに強いている。ソニーのように「見る」機能を重視した商品を提供している企業もあるが,そうでないメーカーが多い。
しかし,実際にはカメラ・メーカーにとって「見る」機能の充実は,二つの点で取り組む意義がある。
第1は,ライト・ユーザーの喜びに直結しているので,自社商品のファンになってくれる可能性があること。ユーザー自らが書き加えたタグ情報などを基に写真ライブラリを管理し,繰り返し使うようになれば,簡単には他社製品に乗り換えなくなるかもしれない。「iPod」と「iTunes」の関係である。