「紋章も演説も抜き」

ドゥ・ブロイも登場する『死ぬまでに学びたい5つの物理学』(筑摩選書)

 パリ大学の教授として研究と教育に携わり、94歳まで生きたドゥ・ブロイの葬儀は、ヌイイ=シュール=セーヌのサン=ピエール教会で「紋章も演説も抜き」という遺言に従って、極めて簡素に執り行なわれた。すなわち貴族の象徴も科学アカデミーの演説も不要ということだ。恐らく名前と生没年のみの墓誌も彼の遺志によるものだろう。

 内側に強靭な精神を秘めながらも慎み深く控えめなドゥ・ブロイは、帰属した学術組織にも積極的に関わろうとせず、自分の研究に専念して学究生活を送った。家柄や所属、序列に左右されず、人を内面でのみ判断する公正さを保とうと心掛けた。肩書も業績も記さなかった墓石には、彼の誇り高き精神、孤高にして独立不羈の人生をそのまま示しているように見える。

 それは彼が属した貴族社会に対する態度でもあった。生涯にわたって上流社会の社交を嫌悪し、名刺に貴族の称号を記すこともなかった。1928年、母の死をきっかけに貴族の生活と決別し、パリ8区にあった邸宅からヌイイ=シュール=セーヌに引っ越して、そこから毎日、地下鉄に乗って大学に通勤した。

 1960年に兄が没すると、公爵家の当主を継いだものの、貴族社会から距離を置きたかったことは、その遺言からも伺える。彼が母方のアーマイエ家の墓に入ったのは、本人の希望であることは間違いない。

 彼は生涯を独身で通した。もともと彼の文学、歴史への傾倒は読書好きの母の影響が大きかった。フランス軍元帥や首相を輩出した名門貴族であるブロイ家ではなく、最愛の母親の元で眠ることを望んだのかもしれない。

 ドゥ・ブロイの死は本国フランスでもほとんど話題にならなかった。お墓には誰かが訪れたという形跡はなかった。故国からも忘れられた存在。ひしめき合う一般の墓の中に埋もれた彼の墓は、彼の科学史上の存在感を表している。