宇佐美 海外から若い子が弊社に来て学んでもらって、帰国して広げてもらいたいと思いますね。ガラス工房などではありますよね。同じように熱いものを扱うのだからあってもいいと思うんです。ただ、アーティストなのか、職人なのかという打ち出し方が飴屋とは異なる点かもしれません。
最近、日本でいうところの仕込飴を実演販売する海外から入って来たお店が国内でも広がっていますよね。イケメンの若いお兄さんたちが実演で飴を作ってるわけです。それで、職人さんを連れて東京のチェーン店に見学に行ったことがあります。まず、店に入る前に約束事をしました。「自分たちのこだわりはあるとは思うが、向こうのお店もプロ意識を持っているので、店内で余計なことは言わないように」と。それで、黙って入っていって年配の職人さんたちが何人も作るところをじっと見ていた。
リアル 異様な光景ですね(笑)。向こうの店には何も言わずに?
宇佐美 そうです。店を出た後の職人さんたちに感想を聞くと「いい加減かと思っていたら、意外に結構きちんとやっているな」と。これで少し職人さんたちも触発されたのではないでしょうか? 我々にとっても学びになるし、これからのヒントになりますよね。
リアル 宇佐美さんは、家業に戻る前は東京の企画会社に勤めていたと話していましたね。それは、いずれ家業に戻ることを前提にした修行だったんですか。
宇佐美 その会社が企画したお菓子は、学生時代にも見たことがあって知っていました。父がある展示会に出展した際にたまたま隣のブースだった会社に息子を会社訪問させてくれと申し込んだようです。それで会社訪問をさせてもらいました。その会社は代官山にいくつも直営店を持ち、いろいろなことを手掛けていた。こんな自由な社風で面白いことをやっている会社なら仕事をしてみたいと感じ、入社試験を受けさせてもらいました。おかげさまで内定をもらったという感じです。後で聞くとその会社の就職倍率は10倍以上だったそうです。私は男3人兄弟の長男だったので、小さいころから母親から「いずれお前は、いずれお前は跡を取るんだよ」と刷り込まれていました。
たぶん、重久さんも同じだと思うんですけど、そう言われるのは嫌だったんです。だから東京で働こうと思った。でも、入社した東京の企画会社も面白かった。最終面接で役員に「宇佐美君のご自宅は商売をしているのですよね。家に帰らなくていいの?」と聞かれました。
最後の役員面接試験で「3年たったら帰ろうと思います」とはさすがに言えないので、「兄弟が3人いるので誰が継ぐか分かりません」という話でうまく切り抜けた。と、思っていたのですが、面接部屋を出る直前に呼び止められて「宇佐美君、君さあ、辞めてからもよろしくね」って(笑)。
三反田 その会社には何年いたんですか。
宇佐美 5年半いました。3年間は商品部に配属され、そこで企画のメンバーと一緒にものづくりを学ばせていただき、その後はそのノウハウを活用した特販営業部で特注品の受注をしていました。新しい企画を打ち出して、今までにない新しいものを作っていく会社でした。そこで学んだ企画の作り方は、今につながっていると思います。
リアル 重久さんは、中学を出て家業で丁稚奉公に入ったのですよね。すんなり家を継いだんですか。逃げようとは思わなかった(笑)。