2014年冬、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の小惑星探査機「はやぶさ2」が小惑星「1999 JU3」に向けて出発する。

 先代の「はやぶさ」は2003年5月に打ち上げられ、2005年9月に目的地の小惑星「イトカワ」に到着、数多の困難を乗り越えて2010年6月13日に地球に帰還した。帰還地のオーストラリア・ウーメラ砂漠の夜空を明るく照らしつつ崩壊する本体と、その前を飛ぶ帰還カプセルの感動的な映像を覚えている人は多いだろう。はやぶさが宇宙の彼方で繰り広げた冒険と形容すべき探査と、劇的な帰還は大きな話題となり、映画(それも4本!)にまでなった(「数多の困難を乗り越え帰還した『はやぶさ』」参照)。

 あれほどの話題となったはやぶさだが、再度の小惑星探査を目指す「はやぶさ2」の道のりは、打ち上げ前から前途多難にして波瀾万丈だった。この連載では、はやぶさ2計画の概要、探査機の実際、そして実現に至るまでの道のりをまとめていく(図1)。

図1●小惑星探査機「はやぶさ」(左)と「はやぶさ2」(右)
画像:池下章裕
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 はやぶさ2を理解するには、初代のはやぶさからどのようなつながりで立案されたかを知る必要がある。連載を始めるに当たってまず、初代はやぶさを立案し、プロジェクト・マネージャーを務めた川口淳一郎・JAXA宇宙科学研究所教授に、はやぶさからはやぶさ2への流れをお聞きした(図2)。

川口淳一郎・JAXA宇宙科学研究所教授
図2●川口淳一郎・JAXA宇宙科学研究所教授
川口教授は、初代はやぶさを立案し、プロジェクト・マネージャーを務めた。

 鋭い読者は“独立行政法人のJAXAで教授ってどういうことだ”と思われるかもしれない。そこには歴史的な経緯が存在する。

 1955年、東京大学・生産技術研究所の糸川英夫教授が始めたロケット研究は、やがて東大・宇宙航空研究所へと発展した。その後、科学衛星を打ち上げるようになり、予算規模が大きくなったことから1981年に東大から独立して、文部省・宇宙科学研究所へと改組。2001年の省庁統合に伴う文部科学省の発足、2003年の宇宙3機関統合によるJAXA発足により、研究所はJAXA宇宙科学研究本部となったが、2010年には組織名を宇宙科学研究所に戻した。

 日本の宇宙開発には二つの流れがある。一つは糸川英夫氏から始まる宇宙科学研究所、もう一つは1960年代の科学技術庁によるロケット開発から始まり、アメリカからの技術導入でロケットを開発した、宇宙開発事業団だ。これに加えて、科技庁の航空宇宙技術研究所〔短距離離着陸(STOL)実験機「飛鳥」が有名だ〕が統合されて、JAXAとなったわけである。

 はやぶさは、JAXA発足前に宇宙科学研究所が企画・開発した探査機だったのだ。