戦後の電子産業政策

 戦後の日本電子産業の成長はラジオから始まった。日本を占領した連合国軍総司令部 (GHQ) は、電信電話とラジオ放送の復興に力を入れる。GHQは「ラジオをつくれ」とやかましく業界に指示したという [日和佐、「終戦直後の電子工業―GHQの思い出―」、『電子工業20年史』、日本電子機械工業会、1968年、pp.351-355]。

 放送面にもGHQは力を入れた。NHKを新法人として再出発させる一方、民間放送の道も開く[『電子工業30年史』、日本電子機械工業会、1979年、p.29]。

 占領終了後には日本としての電子工業振興政策が出てくる。1957年に「電子工業振興臨時措置法(略称、電振法)」を日本政府は制定、これに基づいて「電子工業振興5ヶ年計画」を策定した[『電子工業20年史』、pp.19-20]。この「電振法」と「5ヶ年計画」の特徴は、振興政策が研究開発の促進に及んでいることである。以後、電子工業の研究開発促進は日本政府の重点政策となった。

 1966年には「大型工業技術研究開発」制度(通称「大型プロジェクト」)がスタートする。その第1号が「超高性能大型電子計算機システム開発計画」(研究開発期間は1966~1971年)である。以後「パターン情報処理システム」(1971~1980年)、「光応用計測制御システム」(1979~1985年)などが次々に大型プロジェクト制度によって研究された。

 電子情報通信分野におけるコンピュータの比重が大きくなるにつれ、政府の振興政策もコンピュータ分野のものが上記のように増える。コンピュータ分野では、当時は米IBM社が圧倒的な存在だった。そのため政府の電子工業振興政策も、「IBM対策」の色彩を帯びていた。

超LSI技術研究組合・共同研究所が成功モデルに

 大型プロジェクト制度によるものではないが、通商産業省(現経済産業省)のリーダーシップのもと、「超LSI技術研究組合」が1976年にスタートし、共同研究が1981年まで続いた。総予算は700億円で、うち300億円が国の出資である。このプロジェクトは元々は、IBM社の幻の将来システム(Future System)に脅えて計画された。当時のIBM社は日本の電子産業にとって、それほど脅威と考えられていた。

 超LSI技術研究組合の場合、組合独自の「超LSI共同研究所」が組織される。ここに集まった研究者は、互いに市場で競争している企業からやってきた。彼らが一緒に研究する。まさにオープン・イノベーションの場である。これは研究組合制度による共同研究のなかでも当時は例外的だった。

 1980年代前半に日本の半導体産業が躍進したせいもあって、超LSI共同研究所は、企業と政府が連携する共同研究プロジェクトの成功モデルとなる。米国のSEMATECH (SEmiconductor MAnufacturing TECHnology consortium) や欧州のJESSI (Joint European Submicron Silicon Initiative) などの創設に、超LSI共同研究所が影響している。

 一方「官」主導の産業政策への海外からの批判もあった。いわゆる「日本株式会社」批判である。批判への対処もあって、共同研究プロジェクトは半導体分野では、その後しばらく控えられた。

 「日本株式会社」批判と並んで欧米からの批判がもう一つあった。「基礎研究ただ乗り」批判である。批判の内容はこうだ。

 「日本産業は繁栄している。ということは科学、すなわち基礎研究の成果がなければならない。ところが日本では基礎研究にはみるべきほどのものがない。よそで達成された基礎研究成果にただ乗りして、日本は産業的繁栄を実現しているに違いない」。

 ばかげている。基礎研究の直接の応用とは言えない産業技術など、やまほどある。しかし、ときの通産省は貿易摩擦への対応に苦慮していた。同省は「ただ乗り論」に反論するより、「ただ乗り論」を受けて基礎研究を強化する道を選ぶ。傘下の工業技術院に属する研究所に対し、基礎研究を強化するよう、ほとんど強制した。

 やがてバブルが来る。産業界も基礎研究ブームとなる。しかし前述のように基礎研究指向は長くは続かなかった。バブルがはじけた日本経済は長い低迷期に入る。半導体産業も衰退の一途となる。その状況を何とかしようとして、再び共同研究プロジェクトが山のように創られる。