1987年に兪渝は初めて国を出た。日本の外務省に当たる組織が、中国の対外開放政策についてPRし、いくつかのプロジェクトをまとめる訪問団を米国に送ることになったのだ。彼女はその訪問団に随行して、約1カ月、10数都市を回ることとなった。彼女はこのチャンスを逃さず、米国滞在中にオレゴン大学の面接試験を受け、見事合格した。彼女の学生時代からの夢が叶ったのだ。

 米国に渡った兪渝は自分の学びたいことを学ぶためには経営学修士(MBA)を取らなければ、と考えた。そして金を貯め1990年にニューヨーク大学のマーケティング専攻に入る準備を始める。そんな頃、彼女はある銀行家と知り合った。兪渝が中国から来たというとその人は彼女に大変興味を示し、いろいろと話してくれた。そして、「マーケティングなんて学んでどうするの?僕を見てみなよ。金融でしょ!1年で30万米ドル以上稼げるんだぜ!30万米ドル!」と言った。その言葉を聞いて兪渝は金融を学ぶことを決意し、すぐさまニューヨーク大学のMBAで金融を専攻することにした。

 1992年、彼女が卒業した年は米国では「50年に一度の就職難」であった。なかなか気に入った就職先が見つけられなかった彼女はいきなり起業することにする。学生ではあったが長らくビジネスの現場で働いてきたため、すでに経験も人脈もしっかりと築いているという自負があったからだ。彼女は得意分野を生かし企業買収と財務専門のコンサルタント会社を立ち上げる。28歳という若さではあったが彼女の会社は順調に成長を続けた。その代わりに仕事は多忙を極め、1995年には1年の内少なくとも200日は出張してホテルで泊まっていたという。

 そのような彼女が李国慶と出会うのが1996年前半。では次回は当当網がどのような困難を乗り越えてきたのかを見てみたい。