タイトル
 「自社が完全にコントロールできる独自のマイコン・アーキテクチャを持ちたい」――。1990年に米Motorola社と袂(たもと)を分かってから、牧本たち日立製作所のマイコン事業担当者がこの一心で進めてきた“アーキテクチャ独立戦争”。その総仕上げともいうべきプロジェクトが始まったのは、SHマイコンの第1弾製品「SH-1」のサンプル出荷が始まったころだった。当時、米Microsoft社が民生機器をターゲットに開発していた次期OS(後の「Windows CE」)を、日立のSHマイコンに搭載しようというものだ。

 日立が、Microsoft社から次期OSを民生機器向けマイコンに搭載するための共同開発を持ちかけられたのは1993年春。実務レベルの数回の会合を経て、1994年2月23日にプロジェクトのキックオフ・ミーティングがMicrosoft社の米国本社で開かれた。Microsoft社側からは、研究開発担当の上級副社長を務めていたNathan Myhrboldや、民生機器部門トップ(当時)のCraig Mundie、日立とのプロジェクト統括(同)のHarrel Codeshなどが参加した。日立側のメンバーは、牧本の他、米国の設計開発拠点HMSI(Hitachi Micro Systems, Inc.)社長(当時)の初鹿野凱一、共同開発プロジェクト・リーダーでマイコン設計部部長(同)の木原利昌などである。

 「Pegasus」というコードネームで呼ばれていた次期OSは、SHマイコンの第3弾製品「SH-3」に搭載されることが決まった。この時点ではSH-3はまだ開発途上の段階にあり、設計仕様(ペーパー・スペック)だけが決まっていた。SH-1やSH-2に関する実績、そしてSH-3のペーパー・スペックを信じてプロジェクトは始動した。

 Microsoft社側の要求は厳しかった。SH-3とコンパイラの開発期限の厳守を求められると共に、その途上の節目ごとにフォローが行われることになった。評価ボードやエミュレータ、デバッグ・ツールなどに関しても、開発の主要なマイルストーンが定められた。プロジェクトが始動すると、ソフトウエア開発担当の茶木英明(現ルネサス モバイル代表取締役社長)ら日立側メンバーは頻繁に米国へ飛び、Microsoft社やHMSI社と連携を取って開発を進めた。SH-3のファースト・サンプルが完成したのはMicrosoft社の要求期限が目前に迫る1993年11月だったが、見事に一発完動した。同年末に予定されていた評価ボードへの搭載がギリギリで間に合った。

 このような進捗を受けて、両社幹部による第2回会議が1995年3月9日に東京で開かれた。Microsoft社側はこのころには、日立との共同プロジェクトを研究開発部門ではなく事業部(Personal Electronics Group)に移管していた。Microsoft社はこの幹部会議において、新OSを搭載する見通しの最終製品を報告した。名前が挙がったのは、カシオ計算機や米Compaq社(当時)、フィンランドNokia社、韓国LG Electronics社などの携帯型情報端末だった。新OSがサポートするマイコンとして予定されていたのは、SHマイコンの他、MIPS系とx86系。Microsoft社の説明によれば、このうち「SHマイコンが最も先行している」という。新OSが業界に先駆けてSHマイコンに搭載される可能性が出てきたわけだ。

 千載一遇のチャンスに牧本の胸は躍った。「弊社の半導体部門ではいまやマイコンが中核事業であり、とりわけSHマイコンは最重要製品です。“ノマディック時代におけるメイン・エンジン”を目指して開発を進めてきましたが、御社の新OSが搭載されればまさに鬼に金棒です」。Microsoft社の幹部たちを前に、言葉に力がこもった。

 それから1年余りを経た1996年5月初旬、Microsoft社は新OSに関するソフトウエア事業者向け会議を開催した。その2週間後の5月22日に開かれたMicrosoft社と日立の幹部会議では、新OSを搭載するSHマイコンを採用予定の企業として、カシオ計算機とCompaq社、LG社、米HP(Hewlett-Packard)社の名前が挙がった。新OSのx86系向けサポートはほとんど進んでおらず、MIPS系に対してもSHマイコンは依然として優位を保っているという。新OSの正式発表は1996年夏ごろの予定で、同年11月に新OSを搭載した携帯型情報端末が各社から一斉に発売されるというスケジュールだった。勝負のときが近づいていた。