一方、実質的には2011年初頭からFIHの運営を任されていたと目される後任の程氏は、2011年の決算で7284万米ドルの黒字へと導いた。アナリストらは当初、FIHの黒字を2759万米ドル程度と予想していたが実際にはこれを大きく凌駕(りょうが)。スマホの受託生産を増やすことで加工賃の引き上げを図ったり、生産拠点を広東省など中国沿海部から内陸部への移転、さらには人減らしによるコスト削減を図ったりするなどで黒字転換を果たした。結果、程氏の経営手腕が高く評価されることとなった。それだけに、程氏の突然の辞任について台湾や中国の市場やメディアは、解任に近い辞任なのではないかと受け止めている。

 中国の日刊紙『南方都市報』(2012年7月6日付)の伝えた中国のIT業界筋は、「個人的な理由だという郭さんやFIHの発表をうのみにする者は、業界にはだれもいない」と強調。その上で、程氏が、自社ブランド、つまり「Foxconn」ブランドでスマートフォンを出したいという意向を持っていたという業界内のうわさを披露している。

 同筋は、「年々利益が薄くなるEMSという業態に危機感を覚えた程氏は、FIHが自社ブランドのスマホを出すことを主張。これに対して、郭氏はあくまでもEMSにこだわっている」と指摘。「二人の対立が拡大することによって起こる混乱を避けるため、郭氏は程氏を切らざるを得なかったのではないか」と分析している。

 一方、郭氏からFIH次期CEOに指名された池育陽氏は台湾の理系の最高峰、台湾清華大学の電機系卒で今年53歳。携帯電話の黎明(れいめい)期から台湾で同業界に従事。台湾BenQ(明基)社、台湾華山通信社、台湾CMCS(奇美通訊)社などで要職を歴任した。

 BenQは1998年、台湾で初のGSM携帯電話を発表したが、台湾の市場や業界では、池氏の功績が大きかったとの評価が定着しているという。また、BenQは池氏の在籍当時、当時の携帯業界で隆盛を誇っていた米Motorola社からの受注獲得に成功している。

 池氏はその後、2001年にCMCS社の総経理に就任し、やはりMotorola社からの受注に成功。2005年、フォックスコンがCMCS社を買収したのに伴い池氏も入社し、CMCS社のチームを主体に、フォックスコンで携帯電話の開発体制を構築したという。

 台湾の携帯電話業界筋は、池氏がFIHのCEO就任後、同社をこれまでのEMSから研究開発も手掛けるODM(Original design manufacturer)へとモデルチェンジを図ることで、スマートフォンのODM市場に参入すると分析。携帯電話の受託生産で台湾の2大大手、Compal Communications社、ARIMA Communications社に真っ向から勝負を挑むことになるとの見方を示している。

 自らの後継者について郭氏は、『日経エレクトロニクス』(2012年6月20日付)とのインタビューで、「40代などの若い人々を40人前後選び、次代の経営者として育成している」とコメント。さらに同月半ばには台湾や中国でも「今は100歳まで生きるのは難しいことではない」「私は心の中に一つの目標がある。それを達成しないうちは引退しない」などとして早期の引退はないことを示唆。その上で、「当社は大勢の若者を養成している。今後は連邦制でやっていく」として、「ポスト郭台銘時代」は集団指導体制にシフトするとの構想を漏らしている。

 ただその裏で郭氏が、後継者候補として池氏を高く評価してきたことをうかがわせる報道も少なくない。台湾誌『今周刊』(2011年756号)によると、FIHの再生に取り組んでいた郭氏は同年夏、スマートフォンへの移行に乗り遅れて低迷する大口顧客のNokia社を切り捨てる過程で人員削減を断行することを決めたが、「池育陽の部署は人を減らすな。逆に増やせ」と指示。この時点で既に池氏をFIHの次期CEOとして考えていたとしている。台湾の業界筋は、「40代の40人の中から後継者が育つまでのショートリリーフとして、郭氏がフォックスコン本体の後継としても池氏を念頭に置いている可能性がある」と指摘する。

 ところで、郭台銘氏は、台湾や中国のメディアから、どのようなキャッチフレーズで呼ばれているのだろうか。まず、世界最大の委託生産サービス企業を率いるトップということから「台湾代工の父」とストレートに呼ぶものが多い。その他に目立つのは、「郭三条」という呼び方。郭氏が人に対して何かを説明する際「理由は三つある。一つめは××、二つめは××、三つめは××」というように、三つ(三条)の理由を挙げることが多いから、とのことだ。